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だが、浩成にはここまでしてくれる大人がありがたくもあり、そして申し訳無くもあった。考え抜いた末出した退学届がどう扱われたかは、浩成にはわからない。浩成に携帯電話は無く、家の電話は康明が線を抜いてしまったのだ。浩成は閉ざされた家で一人、孤立していた。
何度となく考えた家出は、遂に果たされる事は無かった。家を出る事を考えるたび、浩成の脳裏に優しい母の笑顔と、まだ温かかったころの康明の顔が横切ったからだ。小さな希望と大きな未練。そしてやり場のない気持ちを募らせて、浩成は日々傷を増やしていった。
そんな浩成の忍耐とは裏腹に、康明の暴力は日を追うごとにその過激さを増していった。傷ついた浩成の顔を見慣れてしまうと、康明は更にわからない顔を求めた。優しく美しかった妻の面影は、康明をどうしようもなく狂わせていったのだ。
それでも、数時間に及ぶ暴力の後は康明も疲れ果て、眠りにつく。今日もまた行われた暴行の傷跡を、浩成は鏡に映していたのだ。そんな時に再び訪れた康明の足音と怒鳴り声。それはいとも容易く浩成を絶望の淵に追いやる。
今までに無い事態に、浩成の震えは止まらなくなった。
「殺される……」
心の声はそのまま口をついて零れ出ていた。もういやだ、もうこんなことは沢山だ。か細い声で鏡に向かって訴える。鏡。母が残したこの姿見だけが、学校を去ってからの浩成の話し相手であった。鏡に映る自分に、そして亡き母に、何度も語り掛けた。
「もういやだ、嫌だよ……。父さんはどうして変わってしまったのさ。あんなに優しかった父さんが。辛い、苦しい、痛い。もう嫌だよ!」
「何を騒いでいる! 浩成!」
怒号とともにドアが何度となく叩かれる。ノックのような生易しいものではなく、それは文字通り拳を叩きつける激しい音であった。
「浩成! 返事をしろ! ここを開けるんだ!」
浩成は足がすくみ、立つことも出来なかった。言う通りにしなければ、さらにひどい暴力が待ち構えてる。頭ではそれを理解していても、身体が動くことを拒否していた。もう、嫌だ。頭の中はそんな思いで満ち溢れていた。
怒声がさらに大きくなる。ドアを蹴りつけているのであろうか、先ほどよりも激しく叩く音も聞こえる。めきり、と木製のドアがへこんだであろう音もしていた。浩成は目をつむり、鏡を両手に抱えるようにして動けない。
不意に鈍い金属音がして、浩成がはっとして目を開きドアのほうに視線を送った。その先では、ドアにかけている簡易式のつっかえ棒の形をしたカギの留め具が、ドアが殴られるごとに少しずつ壊れつつある。カギを支えるネジはすでに数本が外れ、つっかえ棒は歪な形に曲がり始めている。
「ああ!」
浩成は声にならない声をあげると、ドアを抑えつけようと立ち上がった。しかしその瞬間、カギを留めていた最後のネジが弾け飛んだ。カギが地面に落ちる無機質な音とともに、ゆっくりとドアが開き始めた。
(母さん、助けて……)
浩成は絶望的な気持ちで鏡を見る。そこには母の姿は無く、見慣れた浩成しか映らない。当たり前の事だった。しかし、浩成は1つの変化を見落としていた。冷静であれば気付けたであろう変化。今鏡に映っている浩成は、まったくの無傷であったのだ。
壊れたドアを押しのけ、顔を真っ赤にした康明が浩成の部屋に入って来た。乱暴な足音とそれに伴う振動が、浩成の心臓を圧迫する。
康明は言葉も発さず、右足で浩成の腹部を蹴りつけた。身をかがめて咳き込む浩成の髪をつかみ顔を上げさせる。うっすらと目を開けた浩成の目の前には、小さな切り傷をつけた康明の右手があった。
「見ろ浩成! お前が素直にドアを開けないから父さんは怪我をしたぞ! おい、どうしてくれる!?」
竦んで声を出せない浩成に、康明は続けざまに右腕で顔を殴りつける。
「お前が! お前が言う事を聞かないから! お前が!」
鬼気迫る表情で、止む事無く浩成を殴り続ける康明。浩成は頭の中がぼんやりとしてきた。激しく殴りつけられ、軽い脳震とうを起こしているのだ。かすむ視界の隅に、自分と康明が映る鏡があった。
(助けて……)
薄れつつある意識の中、鏡に向かい助けを求めた。康明は息を大きく乱しながら幾度となく拳を振り下ろす。
「殴るほうはなぁ! こんなにも疲れるんだ! なんとか言え浩成!」
鏡の中、肩で息をしている康明。その康明の膝元で身をかがめていた浩成が、すっと立ち上がった。
(え?)
浩成は腫れ上がった目を見開いた。鏡の中の浩成は立ち上がり、父の横にいる。しかし浩成は先ほどから姿勢は変わらず、身を屈したままなのだ。とうとう幻覚まで見え始めたらしい。
鏡の向こうの浩成は、鏡の中の康明を冷たく見据えている。康明は呼吸を整え、今一度浩成を殴りつけようと腕を振り上げた。
――来る!
浩成は恐怖感とともに、目をつむった。身を固くして、康明の暴力が振るわれることに怯えた。けれども、いくら待ってもなんの衝撃も襲ってはこなかった。恐る恐る、浩成は顔を上げた。
その瞬間、浩成の顔に生温かい液体が滴り落ちて来た。べっとりとはりつく粘性のある赤い液体。自分自身が今までの虐待の日々で何度も流して来たもの。血液である。
ボタボタと浩成の顔にかかる血液は、目の前にいる康明の腹部から流れ落ちているものであった。
着ていたシャツを真っ赤に染めた康明が、何が起きたのかわからないという顔で自分の腹部を見つめている。シャツから溢れ、ズボンに染みこみきれず流れ出した血液が畳に溢れる。最初はどす黒い血液が流れ落ち、それは次第に鮮血と呼ばれるに相応しい、鮮やかな色をした赤に変わっていった。
「あ……あ……」
康明が声にならない声を発し、視線を鏡に向けた。つられて浩成も鏡を覗き込む。そこには鏡の中の浩成が、康明の腹部にナイフを突刺す姿が映し出されていた。
「これは……一体?」
浩成は自分の両手に視線を落とす。自らの乾いた血がこびりついた手のひらだ。ナイフなど当然握られていない。しかし、鏡の向こうの浩成はその手にしっかりとナイフを握っている。
そして鏡の中で刺された康明は、今目の前で鏡の向こう側で刺された場所と同じ場所から大量の血を流している。幻覚を見ているのであろうか? しかし、頬に触れる血液の熱は幻覚とは到底思えない。
「こ、浩成……!? お前……!」
脇腹を抑えた康明が絞り出すような声で叫び、右手を振り上げた。刺された、そう思ったのであろうか? しかし手を振り上げたその瞬間、鏡の向こうの浩成は腹部に刺したナイフを横に引いた。
すうっ、と紙でも切るかのように滑らかに腹部を横断するナイフ。浩成は、その光景をスローモーションで見ているかのようにはっきりと視界に捉えた。
「ひゅっ……!」
康明はもはや言葉とも言えない音を漏らして、膝から崩れ落ちた。何か言おうと開いた口からは、とめどなく血が流れ出ている。浩成に向けられた大きく見開いた目は、助けを求めているようでもあり、どす黒い怒りを向けているようでもあった。
かがんでいる浩成の目の前に、崩れ落ちた康明の切り開かれた腹部があった。暖かな春の陽気とは比べ物にならない熱が顔全体にかかる。自らの血と康明の腹部から溢れる返り血の雨の中、鏡に映る自分を見た。
血まみれになった鏡に映るもの。それはさっきまでの無傷のナイフを持った自分ではなく、顔全体を腫れ上がらせた現実の姿そのままの浩成であった。鏡の中を見回しても部屋の中を見回しても、先ほどのナイフをもった無表情な自分はいない。
「はっ、はっ、はっ」
短い浅い呼吸を繰り返す康明。浩成は、何度も殴られふらつく身体で、1階にある電話から救急車を呼ぼうとなんとか立ち上がった。しかし、一歩踏み出した瞬間、足を何かにとられ転倒した。なんだ? と思って足を取るものに目を向ける。それは父、康明の腹部からこぼれ出した内臓であった。
「こ、これ……!」
浩成と康明が同時に叫び声をあげた。必死の形相でこぼれた内臓をかき集めはじめる康明。浩成は痛みと疲労、そしてこの世のものとは思えない光景を目の当たりにし、視界が暗くなっていく自分を感じた。意識を失う瞬間浩成が耳にしたものは、液体の滴る音と、康明が必死に内臓をかき集める音であった。
【2】
「全身に数十か所の殴打の跡ねぇ……。痛々しいこった」
書類が乱雑に積まれたデスクの前で回転椅子に座り、足を組んでいる男が呆れたような声でいった。男の右手には1冊のカルテが握られている。そのカルテには『柴咲浩成』という患者名が記されていた。仕立てのいいスーツには似合わないぼさぼさの髪を、左手で無造作にかきむしった。
「かなり長期間に渡る暴力があったみたいね。いつのものかわからない位に古い傷から運ばれてくる直前に殴られたと思われる傷まで、全身至る所にあるわ」
男の前に立っている白衣を着た女が言う。黒い艶やかな髪が鎖骨の辺りでかすかに揺れた。意思の強そうな鋭い目が、目の前の男に向けられていた。
「ひどいもんだ。こりゃあ、殴った相手を殺したくもなるわな。んで……」
男は一呼吸置くと回転椅子を90度ほど回し、真っ直ぐに白衣の女性に向き直る。
「これを俺の所に持ってきたのはどういう訳だい? 西園寺先生?」
白衣を着た女性、西園寺美優(さいおんじみゆ)は小さく溜息を漏らした。腰に手を当てて、軽く首を捻った。
「わざわざタバコ臭いあなたのとこまでカルテを持ってきた時点で、それくらいは察せ無い訳? 警視庁公安部特務課、犬神宗樹主任?」
仰々しい嫌味を受けた男、犬神宗樹(いぬがみそうき)は面倒臭そうに眉をしかめる。
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