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「それはわざわざどうも。ったく、虐待の相談なら交番にでも行けよ。俺なんかよりよっぽど親切に話を聞いてくれるぜ」
「あなたねぇ。もう1枚のカルテはきちんと読んだ?」
「へ? もう1枚?」
西園寺に指さされ、犬神は右手に握ったカルテを改めてめくる。『柴咲浩成』のページをめくり終えると『柴咲康明』と書かれたカルテが出てきた。
「ああ、今回の仏のほうのカルテだろ? 話しは聞いたよ、刺殺だっけか?」
カルテに向けていた視線を西園寺戻す。西園寺は口をへの字に曲げてむっとした表情で言った。
「やっぱり読んで無い! ちゃんと見て、ほらここ!」
西園寺が身を乗り出し、康明のカルテの一か所を指差す。背もたれに預けていた身をあげて、犬神がカルテを覗き込む。
「腹部に大きな裂傷有り。これが死因と推測され……」
「肝心なのはその先よ」
「急かすなよ。ええっと、何々? 事件現場である被害者宅に置かれたどの刃物とも傷は一致せず、犯行に使われた凶器は未だ発見されていない。……これがどうかしたのか?」
「どうかしたのか? じゃないわよ。いい? 救急車が家に到着した時、犯人と思われる柴咲浩成はその場で気を失っていたのよ? 警察と消防に通報したのは大きな物音を不審に感じた近隣住民。あの家は警察が駆けつけるまで密室状態だったのよ? こんな状況で刃物が無いなんておかしいと思わない?」
西園寺が身振り手振りを交え、犬神に説明する。その声色には、こんな事も説明しないといけないのか? という面倒臭そうな気持ちが見え隠れしているような気がした。犬神は改めてカルテに目を落とす。わざわざ西園寺が自分の所にまで来ているのである。という事は一通りの捜査を終え、それでも成果は無かったのであろう。
「一応聞いておくかな、所轄の捜査で何かわかったことは?」
「無いわ。せいぜい、凶器は周辺をどんなに洗っても出てこないって事くらいね」
犬神は小さく頷くと、再びカルテを柴咲浩成のものに戻し、書類を軽く指で叩いた。
「それで、この少年は今どこに?」
「嫌疑不十分で自宅に帰しているわ」
「自宅に帰した?」
いくら虐待の被害者で未成年であるといっても、随分とおかしな処置であった。事件からまだ一週間ちょっとしか経っていない。本来なら、しかるべき場所に勾留していてもいいはずだ。凶器も見つかっていないのであれば、尚更である。
「ただし……」
「ただし?」
訝しげな表情をした犬神に顔を近づけ、西園寺が声のトーンを落として話す。
「彼の自宅にあらかじめ盗聴機や監視カメラをしこんであるわ。とても一般人が見つけられないような場所にね」
犬神は口の端をあげ、小さく笑った。両腕を伸ばし、近づいた西園寺の顔を避けるように背もたれに大きくもたれかかる。
「所轄も随分やるじゃあないか。尻尾を出すのを待とうって腹かい。けど、そんなもん証拠としては扱えないぜ? いや、物さえ出てくりゃあいいわけか」
椅子にふんぞり返る犬神を、西園寺が再び身を乗り出して追いかけた。まだ話しは終わっていない、とでも言いたそうな表情である。
「ああはいはい、それで、何かわかったのか?」
犬神は降参だとでもいうように両腕を軽くすくめて見せた。西園寺は白衣の胸ポケットから小型のUSBメモリを取り出し、犬神の目の前に突きつけた。
「録音した音声と撮影した映像を合わせた物よ」
「自分で確認しろってことか」
犬神が諦めたようにメモリを受け取る。椅子を回転させてデスクの前に向き直り、いくつかの書類に埋もれたノートパソコンを取り出す。起動スイッチを押すとパソコンは一瞬で立ち上がる。
手早くパスワードを入力し、メモリを端子に挿し込んだ。西園寺が横からパソコンを操作し、ロックを解除する。いくつかの数字が並んだファイルが開かれた。
「見て欲しいのはこれよ」
西園寺が一つの映像ファイルを指差した。数字は日付であると予想されるが、だとしたらこれは三日ほど前のものになる。犬神はカーソルを合わせファイルを開く。画面には柴咲浩成と思わしき少年が映し出された。角度的には斜め上、どこか天板にでもカメラを設置したのかと思われる位置だ。
映像はそれなりに綺麗で、鏡の前に立つ浩成の顔まで良く見えた。カルテに添えられた写真と比べると、顔の腫れはだいぶ収まったように見えた。
「どうして、君は父さんを殺したんだ?」
少年らしい、少し高めの声がした。
「どうして、殺した?」
浩成の言葉を復唱し、犬神は左手の手のひらで口元を覆った。考え事をするときや、何かに集中する時の彼の癖である。緩んでいた表情は見る間に引き締まってゆく。画面の向こうの少年は、喋り続けている。
「どうして父さんを殺したんだ!? 何も殺すことなんて無かったのに。出てこいよ! あの時みたいに鏡の中に出てきてよ!」
画面の中の浩成は鏡に向かって一心不乱に叫び続けている。発する言葉の内容はほとんどが鏡に出てこいというものである。合間合間に、嘆きや父親への謝罪の言葉も混じっていた。泣きはらした目で、声がかすれるまで叫び続けていた。
「これ、別の角度からの映像は無いのか?」
犬神は画面から目を離さずに西園寺に声をかけた。
「あるわ。解析班にも回してみたけれど、鏡にはなんにも映ってないそうよ」
「確認はしておきたい。鏡が見える角度の映像はどれだ?」
「これと、これ。それにこれもね」
西園寺が画面の上のファイルを3つほど指差す。解析班が何もないというのであれば望みは薄いが、まずは自分の目で見てみる事にする。熱心に映像を見ている犬神に、西園寺が声をかけた。
「あなたの目なら何か見つけられるかもね。頼りにしているわ、犬神主任」
「主任はよせ」
「はいはい。頼むわね、宗樹」
そういって西園寺は覗き込んでいたデスクから身体を離した。
「おいおい、俺にデータを渡すだけ渡していくのかよ?」
「そのファイル、何日分のデータが詰まっていると思っているの? ずっと横にいたって効率的じゃないでしょう。それにあなたの目で見つけられなかったら、他の誰にも何も見つけられないわよ」
そういうと西園寺はじゃあね、と一言残し踵を返して去って行った。どうやら面倒な仕事を押し付けられたようだ。犬神は生まれつき視力が人並み外れて優れていた。秀でた目を持って生まれた犬神だが、その自覚を持つことなく成長し、自分が目が良いと知ったのは小学校で行われた視力検査の時であった。
その視力は遠く離れたコインの裏表も容易に識別出来るほどで、ギネスに挑めばどうかという程のものである。確かギネス記録は1834m離れた、25センチほどの物体にあいた穴の向きを見る、とかいうものであった。それもすぐに塗り替えられたらしいが、犬神ならばどれほどの距離でそれが可能なのか、興味がない事も無かった。
しかしそんな記録を知った時にはすでに駆け出しとはいえ公安の仕事についていた犬神は、目立つ事は避けるようになってゆく。結局自分の正確な視力はわからないまま今まで生きてきたが、公安の施設での検査結果では視力7.0はゆうに超えていた。
「……鏡に映るものは、無いか」
そんな犬神の視力をもってしても、今回の事件の手掛かりは見つかりそうにない。朝からの半日をかけて眺めたいくつかのファイルは、ただ浩成の嘆きの声が詰め込まれているだけのものであった。
カルテを見る。彼はまだ十六歳のはずだ。泣き疲れ、すっかりとそげた頬を見ると、犬神は胸が痛む思いがした。演技などではない何かが、彼にはある。そして、それは犬神が取り仕切る公安部特務課の人間がもつ特別なものと同じ類である可能性を感じた。
恐らくは西園寺もそれを感じたからこそ、犬神にこのデータを持ってきたのであろう。
「会ってみるか」
すっかり根元まで吸い切ったタバコを灰皿に押し付け、犬神は立ち上がった。
【3】
康明が死んだ一連の事件の数日後、浩成は自宅に帰る事を許可された。逮捕され少年院にでも入れられると思っていた浩成にとって、嫌疑不十分での釈放という処置は全くピンと来なかった。
疑わしきは罰せずなどという言葉はあるが、それをいうなら状況証拠というものだってある。自分と康明は血まみれで倒れていたらしい。そして最後まで浩成は黙秘を貫いたままであったのだ。窓は開いていたが、あそこは二階である。第三者の犯行など考えにくい。
だが、実際にこうして浩成は釈放されている。警察はほかの侵入者の犯行だとでも思ったのであろうか。
今までは酒を飲んで大声で暴れていた康明に怯える日々であった。しかし警察署から戻った自分の家は、がらんとしていてどうしようもなく広く感じられた。一切の音が止んだ不慣れな広い空間は、浩成に罪悪感を芽生えさせた。
あの時、鏡の向こうの自分が鏡に映る康明の腹部を切り裂いた時は、ただ必死だった。必死に康明の暴力に耐え、必死に助けを呼ぼうとした。意識を失って目覚めた場所は知らない天井であった。そこは病院で、怪我の治療と取調べに忙殺され、浩成は他の事を考える時間が無かった。
康明がどうなったのか、自分から聞く事はなかった。あの光景を見れば、いやでも想像がつく。怪我が治り、取調べも済んで帰ったこの見慣れた住み慣れないこの家で、浩成は鏡にうつった自分への嫌悪と罪悪感に飲まれる日々を過ごした。
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