リフレクトリフレクション

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 食欲もすっかり無くなり、家に戻ってきたほんの数日の間に浩成はひどく痩せていた。そして、身体が弱っていくとそれと共に心も弱りだした。ぼんやりと横になりながら思い出すのは、康明との辛い日々ではなく、家族三人が揃った温かい風景であった。それを壊したのは母の死でも、康明の豹変でもなく、自分なのではないか? そんな事を思った。  気が付けば浩成は、事件の後家に戻ってからは怖くて近づくことの出来なかったあの鏡に触れていた。1人きりになった怒りも哀しみも、やりきれない感情もすべてをあの時鏡の中に映った、父を刺したもう一人の自分に向けた。  血まみれであったはずがすっかり綺麗にされていた、事件の起きた自分の部屋。そこで浩成は鏡と毎日向かい合った。 「出てこい! あの時みたいに、出てこいよ!」  何度となく鏡に向かい語り掛け、時には怒鳴り散らした。しかし、どんなに叫んでみても鏡の中に映る自分は、何一つ変わりはしなかった。あの時映った傷一つ無い顔は出てこない。何度鏡を見ても、そこに映っているのは暴力を受けた傷跡が未だに残る浩成だけである。  そんなある日の昼過ぎ、玄関のインターホンが鳴った。軽快な音楽とともに、男の声が部屋に入ってくる。 「もしもし、警察の者ですがどなたかいらっしゃいますか?」  警察と聞いて、浩成はついに自分を逮捕に来たのだと思った。不思議と恐怖感はなく、こうなる事がわかりきっていたかのように落ち着いていた。父を殺したのは、自分なのだ。例えそれが鏡の向こう側の事であったとしても、現実に父は死んだのだ。  悪い夢なら――そう思いたくなる頭を乱暴に左右に振って、立ち上がる。この日々が悪夢なら、虐待を受け続けていた間にとっくに醒めているはずだ。鏡の自分が康明を刺した時、目覚めたはずだ。実際には父を殺し目覚めた先の光景は、病院のうすら寒い冷たい天井であった。  再びインターホンが鳴らされた。 「柴咲浩成君はいらっしゃいませんか?」  どこかけだるそうな声である。インターホン越しに見える姿はまだ若い男のようだ。スーツを着込んでいるが、ネクタイは緩んでいた。インターホンの開錠のボタンを押し、玄関を開け男を迎え入れた。 「俺が柴咲浩成です。俺は逮捕されるのでしょうか?」  浩成は玄関を開け、開口一番に思っていたことを率直に言った。目の前に立っている男は、おや? という感じに目をわずかに見開いた。その後、少し周囲に視線を送り、改めて浩成に向き直る。 「え~っと、そういう事ではないんだけどね。ちょっとお邪魔していいかな?」 「そういう事ではない?」 「いいからいいから、今日は暑い。細かいことは中で話そう」  浩成の肩に右手をぽん、と軽く置き、人懐っこい笑みを浮かべて男が言った。左手にはコンビニか何かの袋が握られていた。まるで休憩中のサラリーマンのようである。  もう散々警察の人間には調べつくされたであろう家に、特に今更警察の人間をあげる事を拒否する理由も無かった。しいていえば、面倒だという位である。逮捕するのならばさっさとして欲しかった。 「……どうぞ」 「ありがとう、失礼するよ」  浩成はドアを大きく開けて男を迎え入れる。この男の物腰は随分と柔らかい。浩成は警察というものにはなんとなく居丈高なイメージを抱いていた。実際、病院や警察署で取調べを受けた時は、そのイメージは間違いではなかったと思わせる警官ばかりであった。  しかし、この男はドアを強引に開けたりもしなければ、ずっと年下であろう浩成にも対等に接してくれているように感じられた。  男を家にあげ玄関を閉めて数歩歩き、浩成は立ち止まった。この男をどの部屋に連れていけばいいものか。康明の部屋には何があるかもよくわからない。かと言って、今は掃除されているとはいえ、血まみれの事件現場に警察である男を連れていってもいいものか、と逡巡していた。  すると男が浩成の背中を文字通り軽く押した。 「とりあえず、君の部屋にいこうか? 所轄の連中がきれいに掃除しておいたはずだけど、どうかな?」 「部屋は掃除されていましたが……。いいんですか?」 「ん? 何がだい?」 「あんな事件のあった場所で」  そう言って浩成は振り返って男を見た。男は少し哀しそうな顔をしていた。 「あの部屋は、辛いかい?」  さっきまでのおどけたような声色は消え、優しげな口調で男が尋ねる。浩成は首を横に振って答えた。 「いえ。平気です、刑事さんが気にしないのなら」 「うん、行こう」  男を部屋に通すと、適当にクッションを出して畳の上に置いた。血まみれになっていた場所と、鏡に映る場所はさりげなく避ける。ありがとう、と答えた男は腰を降ろす前にひとしきり部屋を眺めた。鏡を見る目が一瞬険しくなったのは、気のせいであろうか。 「私はこういうものだ、よろしくね。浩成君」  二人で向かい合って座ると、男は名刺を差し出して笑ってみせる。受け取った名刺には、警視庁公安部特務課主任、犬神宗樹とあった。 「犬神、宗樹さん。……公安部、特務課?」 「まあ、公安部の中の雑用係みたいなもんだよココは」  腕を組んで顔をしかめてうんうんと頷く犬神。どことなくコミカルな動きに浩成は少しだけ口元を緩めた。そんな浩成に、犬神が左手に持っていたビニール袋を差し出した。 「それは?」 「ちょっとここに来るまでの間にコンビニに寄ってね、買ってきたんだ。たまごサンドにカツサンド。それに、スポーツドリンクもある。君へのお土産だ」 「お土産って?」 「あんまり食事をしていないんだろう? 辛い事があって食欲が沸かないだろうけれどね。それでも生きている限り、人間食べないとね」  不意の気配りに、浩成は言葉に詰まった。考えて見れば、学校に退学届を出して以来、誰かに心配されたりした事は無かった。思いがけない嬉しさで胸の端に熱い物を感じる自分を、出来るだけ抑えようとした。  この男は警官であり、自分は容疑者なのだ。この差し入れも、何かしらの意図が入っているのかもしれない。 「ありがとう、ございます」  ぎこちなく受け取った浩成を見て犬神は笑った。 「ははは、まあこんな状況じゃあ、警戒もされちゃうかな。でも、それは経費じゃなくって私の財布から出ているものだから、気にせず食べてくれると嬉しいな」 「は、はぁ……」  戸惑う浩成を見て、犬神が顔を引き締めて言う。 「まあ、率直に要件を話したほうが君も落ち着くかな?」  来る。そう思った浩成の顔が無意識にこわばった。 「そうですね、お願いします」  声が震えてしまいそうになるのをなんとか抑えて、低い声で答えた。 「ふむ、では聞こう。あの鏡には、何があるんだい?」 「えっ」  思いもかけない犬神の問いに、浩成が声を漏らす。この男は、鏡の事を知っているのであろうか。浩成は背中に冷たいものが流れるのを感じた。 「何か、あるのだろう? もしかしたら、うん。とても言いにくいことなのかもしれない。それでもね、教えて欲しいんだ」  犬神が左手を口元にあて、言葉を選びながら話す。浩成は焦り、そして迷った。どうしてこの男は鏡の事を知っているのか。この男に自分が見た事をすべて話してしまっていいのであろうか? 警察の取調べではついに話すことの無かったこの事実を。 「鏡を見ても、いいかな?」  そう言うと犬神は立ち上がり、ゆっくりと鏡に近づいた。浩成は迷った。危ないと止めるべきか。本当にあの鏡は危ないのか。止めればすべてを話さなくてはならないかもしれない。しかし……もしもまた鏡の向こうに自分ではない自分が現れたら、そう考えると、大きな声を出していた。 「鏡を見てはいけない! きっと、危険です!」  浩成は立ち上がり、犬神の腕を掴んで止めた。 「危険?」 「はい、危険だと思います。あの鏡に近づかないで下さい」 「どう危険なんだい?」 「それは……それは、わからないです。でもきっと、危険なんです」 「そうか、教えてくれてありがとう。注意するとしよう」  浩成に微笑んでみせると、犬神はそっと浩成の手を振りほどき、鏡の前に立った。そのまま鏡を触ったり裏を見たりと調べている。 「ふむ、何もなさそうだが」  首を捻りつつ鏡を調べ続ける犬神。康明の時のような事が起きるのではと浩成は気が気ではなかった。しかし、犬神の身には何も起きておらず、鏡にも異常はないらしい。恐る恐る、浩成も犬神の横から鏡をのぞき込んだ。見慣れた自分が映っている。 「この鏡に、何かあるのだろう?」  横に来た浩成に、もう一度犬神が聞いた。浩成はどきりとした。この男は、鏡について間違いなく何かを知っている。一体何を? 犬神を止める事に必死だった脳裏に不安がよぎる。その瞬間、何かが動いた気がした。浩成が鏡に目を向ける。  居る。あの時と同じ『浩成』がいる。傷一つ無く、冷たい目をした浩成である。その右腕にはナイフが握られていた。 「あっ!?」 「どうした?」  浩成が声をあげる。その声につられるように鏡の側面を見ていた犬神が、浩成を見る。その背中では鏡の中の浩成が、ゆっくりとナイフを持った腕をあげていく。 「鏡にナイフが! 危ない!」 「何っ!?」  犬神が振り返った瞬間、鏡の中の浩成は腕を振り下ろした。 「くっ!」  鏡の中の犬神にナイフが触れる直前、犬神はなんとか身をかわした。だがぎりぎりまで鏡に映っていた左手の甲には、うっすらと赤い筋が見えたが、大きな怪我は負っていないようだ。浩成は大きく息をついた。 「これは驚いたな。鏡に映ったあれはなんだい?」 「俺にもわかりません。ただ、父が死んだ時にも、同じような事がありました」
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