第一章

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 予定より早く家を出て、時間を持て余した俺は現場に近い所属事務所に顔を出すことにした。何もない日にこうして事務所に顔を出し、マネージャーさん達と世間話をする時間が、意外と仕事に繋がったりするものなのだ。  とはいえせっかく回してもらったオーディションに落ちまくっている手前、挨拶するのも何だか後ろめたい。  いつもより重く感じる扉を開けると、担当マネージャーの黒川さんがハイテンションで近づいてきた。名は体を表すと言うが、今日も一段と黒光りしている。 「おはよう! 貝崎くん、今日は久し振りにアニメの仕事だねぇ」 「はい。お仕事振っていただき、ありがとうございます」  何気ない言葉も嫌味じゃないかと身構えてしまう悪い癖が、年々酷くなっている。 「原作の先生が是非丹羽くんに攻めを演ってほしいってご所望でね。それで他のキャストもうちの事務所で組ませてもらったから、今日は僕も顔を出そうと思ってたんだよ」 「そうだったんですか。丹羽さん様様ですね」  丹羽暎。お世辞にも大手とは言えないうちの事務所を背負って立つ、二枚看板の一人だ。テレビアニメなどの露出こそ多くはないが、「スパダリの帝王」と評される甘い声とマスクで、世の女性達を虜にしている。 「ん? 僕が何だって?」  耳のすぐ後ろで響く低音ボイスに、思わず体が浮き上がりそうになった。 「――あっ、丹羽さんお疲れ様です! いらしてたんですね」 「うん。来週発売のCD、届いたっていうから取りに来た。SNSに載せたくて」 「丹羽くんなら、取りに来なくても届けに行ったのに~」 「いや、ファンの子達に早く見せたくてね。じゃ、貝崎くん、今日から優しく抱いてあげるから、身も心も僕に預けちゃって、ね」  まるでダミヘ収録の耳責めボイスみたいな声にのぼせ上っていると、黒川さんのずっしりした手が俺の肩にとん、と乗った。 「『プロきゅん』のサ終から三年、そろそろ爪痕残さないとな。貝崎律己が無理なら、月埜理人(つきのりひと)月埜理人にバリバリ稼いでもらわないと」 「……はい。頑張らせていただきます」 そんなこと、俺が誰より一番分かっている。俺、貝崎律己が「プロポーズきゅんきゅんスターズ」通称「プロきゅん」でブレイクし、全国のコンサートホールを回ったのは、もう五年も前のことだ。 女性向けのアイドルコンテンツは移り変わりが目まぐるしい。毎日のように新しいものが生み出されては消えていく。 その証拠に、最盛期には公式発表の度にトレンドを席巻していた「プロきゅん」関連のワードは、今やほとんど呟かれていない。武道館を埋め尽くすほどのリングライトは、一体どこへ行ってしまったのだろうと時々思う。 でも今は過去の栄光に縋っている場合じゃない。 「ダメだぞ俺。目の前にある仕事に集中、集中!」 ひとりごち、指先まで冷たくなった両手で顔を挟む。するとジーパンのポケットで、スマホが短く震えた。取り出すと「母」の文字が光っている。 『あんた最近アニメで見とらんけどちゃんと仕事しとるの? 正月は帰ってきなさいね』 アイドル声優としてステージに立てていた頃は、夕方の健全なアニメのレギュラーの仕事も貰っていた。最初は声優になることを反対していた両親も、その時には近所中に自慢して歩いていたのだと妹から聞いたことがある。 でも今、俺の生計を支えているのは親には言えない仕事ばかりだ。 「プロきゅん」のアプリがサービス終了し、仕事が激減した三年前、黒川さんが持ってきた仕事は女性成年向けのゲームやCDの仕事だった。そこでつけた「月埜理人」という名前を、BLなどの親やリア友にバレたくない仕事の際にも使わせてもらっている。 それから、裏名義での仕事は何とか続いているけれど、まさか「年下ドSヴァンパイアとかショタ受けをぼちぼち……」などと返せるはずもなく、無難に「最近はゲームの仕事してる。正月は帰る」とだけ送って、また端末をポケットにねじ込んだ。 先行き不透明な仕事への不安と、これから住む家も定まらない状況に頭を痛めつつも、仕事があるだけありがたい! と気を取り直して、今日のスタジオへ向かった。
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