偶然性の問題

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怒りという感情の実用的な側面について私に教えてくれたのは彼女だった。 私は職業柄、うっかり怒りの感情を持った所為で破滅に陥った人々を数多く見てきた。物を壊したり、人間関係を崩したり。最悪の場合、人を殺めることにもなる。司法がどんな罰を準備しようとも、怒りを前にして罪の意識は封じ込められてしまう。怒りは理性を容易に乗り越えることが出来るようだ。だからこそ、古今東西、怒りを持つことそれ自体が罪であり毒であるとされてきたのである。 しかし、ある種の生物が毒を養分とすることが出来るように、どうやら怒りをエネルギーに変えることの出来る人間もいるらしい。彼女は怒りを巧みにコントロールする特別な能力を備えているようだった。彼女の身体の中にら怒りの内燃機関があって、それが完璧に制御されている。それも、排出されるのは僅かな二酸化炭素と水だけである。 ※ ※ ※ ある公害訴訟の弁護団に加わって欲しいという依頼を受けた時、私はコンビニコーヒーの紙パックを少し強めに握って細やかな抵抗を示した。「なるほど...。」しかし地元の有力者からの指名ということで私は断るわけにはいかなかった。 「頼んだよ。」訴訟資料の束を私のデスクに積みながら、所長は私の目を射抜いて念を押した。 「承知しました。」 彼がオフィスを出て行くのを確認してから、私は大きくため息を吐いた。集団訴訟に気乗りがしないのは、私が同属の弁護士たちと仕事をすることが好きではないからだった。弁護士という人種は、弁が立つ分だけ面倒な人間が多い。特に人権派と呼ばれる弁護士は、私の知る限り人間味が溢れすぎる傾向にあった。 初回のミーティングは九段下のホテルの会議室で行われることになった。チェックアウトの客の波が去った11時前のロビーは空いていて快適だった。時間より早く到着した私は、フロントデスクで会議室の場所を確認して、それからロビーのソファーに腰掛けて時間を潰していた。 「失礼ですが。藤堂先生ではありませんか?」 テーブルを挟んで反対側のソファに先に座っていた女性が不意に立ち上がって私の名前を呼んだ。 「ええ。私は藤堂ですが。」 「やっぱり。今日からご一緒させて頂きます。安田法律事務所の鈴木です。」 鈴木華恋。弁護団のリストに載っていたその名前を私は憶えていた。私も立って笑顔を作る。爽やかで隙のない表情は弁護士稼業に身をやつしてから会得した顔であった。 「鈴木先生。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」 私は彼女と握手をした。私は初対面の相手がどんな人間であるかを瞬時に観察することについて多少の自信があったが、ジル・サンダーの甲冑のようなスーツを纏った彼女からは、僅かな隙も感じられなかった。まるで感情がジャケットの内に綺麗に折り畳まれているみたいに、彼女は落ち着いて見えた。 彼女は些か中性的な顔立ちをしていて、それを強調するかのように黒髪をショートカットにしていた。 「少し早いですが、会議室までご一緒しましょうか。」 「そうですね。ありがとうございます。参りましょう。」 ※ ※ ※ 嫌な予感がしていた通り、初回のミーティングは荒れに荒れた。人権派弁護士たちは被害者の悲惨な状況について大いに語り、それぞれの実績と経験を踏まえて国と電力会社を徹底的に球団する構えを見せた。時としてそうした感情論が判決に影響を与えることもあり、それが人権派弁護士たちの戦術でもあるのだが、私はそれがどうにも好きにはなれなかった。雄弁に語れば語るほど本質的な事柄が見えにくくなるような気がするのだ。 そんな中で唯一冷静に話が出来そうな相手は彼女だけだった。事実を正確に説明し、論点を端的に整理して話をしようとしているのが分かる。それでいて、淡々としている風でもなく、彼女は人権派が好みそうな単語を適切な頻度とタイミングで挟み込んだ。それが意識的になされたものなのか、私には判別がつかなかった。 「もし宜しければ、コーヒーでも飲んで帰りませんか?」 長い会議の後で、彼女の誘いはとてもスマートだった。うんざりとした気分を晴らすために私はカフェインを欲していたし、彼女との会話はそれ以上に効果が期待出来るように思えた。もっとも彼女からすれば、弁護団の収拾がつかなくなる前に味方を作っておこうという意図だったに違いない。彼女の誘い方は徹底してビジネスライクだった。 「ええ。喜んで。」 私たちはホテルのカフェで1杯1,500円もするコーヒーを注文した。私の愛飲するコンビニコーヒーの10倍の値である。 「ここではコーヒーは奢侈品のようです。」 彼女はそう言ってカップについた口紅をいちいちウェットティッシュで拭った。 「そうですね。ここに泊まるような客の多くにとってコーヒーの実用的な効用はあまり必要のないものなのかも知れません。実用性は我々労働者階級の特権です。」 彼女は周りを何気なく見渡してから、全くその通りだと言うようにして眉を動かした。 「それで。藤堂先生は今回の裁判の進め方について率直にどうお考えですか?」 「参加されている弁護士の数が多いので、それぞれ争点が増えてしまっていますが、最終的には石炭火力発電所の排ガスと地域住民の健康被害の因果関係をどこまで明確に示すことが出来るかというところだと思います。」 「明確ですね。」 「ええ。明確です。」 「良かった。あなたとは気が合いそうです。」 鈴木は私を"あなた"と呼んだ。私はそれを良い兆候だと思った。彼女はとびきりの美人であるという訳ではなかったし、性的に魅力ある所を待ち合わせているという訳でもなかった。むしろ彼女の魅力はその"隙のなさ"にあるように感じた。私の知る限り女性のそうした防御的な姿勢は彼女たちの本質を隠してしまうものであるはずだったが、鈴木の場合それはむしろ彼女そのものを表しているように思えた。 鈴木華恋のような人間を私は他に知らなかった。
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