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裁判は私たちの予想通りに進んだが、それは必ずしも私たちにとって良い方向ではなかった。争点は思った通り石炭火力発電所と周辺の大気汚染指標との因果関係、そして大気汚染と住民の健康被害との因果関係の有無に帰結した。弁護団を組む人権派弁護士たちは勢いを弱め、沈黙する機会が増えた。
「原告側の調査によって発電所周辺の硫黄酸化物、窒素酸化物、及びPM2.5の値が平均より高いということが示されました。しかし、それはあくまで偶々平均より高いということであって、統計学的解釈によればその程度は有意な差ではございません。」
被告側の主張は、大気汚染の程度は低く、たまたまそれが平均よりも高い数値であったとしても、それが必ずしも火力発電所の排出する化学物質に原因があるわけではないということだった。
「原告側で示したのは1年で24回に及ぶ大気汚染調査の結果であり、決して1度計測しただけの評価ではありません。火力発電所から排出される化学物質を原因として周辺の大気が恒常的に汚染されていることは明らかで、統計上も厳密に有意な差が出ています。またそのような恒常的な汚染せれた大気を吸い続けることによって健康被害が引き起こされることは明白であります。」
鈴木の声には力がこもっていた。その勢いを見れば、そのエネルギーが彼女の言う"怒り"を燃料にしていることに納得出来る気がした。
※ ※ ※
裁判は日を進めるごとに世間の注目を浴びた。世界情勢が脱炭素に向かい、石炭火力発電の環境への影響が問題視されるようになってきたのだった。彼女は弁護団の中でも際立って精力的に働いたので、次第にその裁判の顔と呼ばれる存在になっていた。
「少しは休んだ方が良いんじゃないかな?」
彼女は忙しい日々を過ごしていたが、それでも月に1度は私の家に来ることを欠かさなかった。彼女はそれを自らに半ば義務として課しているかのようだった。
「まさか。勝負はこれからじゃない。」
彼女はソファに横になって、そのままの姿勢で新聞を眺めた。私の知る限りその日の一面には主要国首脳会議の内容が書かれていて、そこには環境問題も当然含まれていた。それはきっと君の怒りを焚き付けるだろうと思って、クッションの下に隠しておいたのだけれど、君は奇しくもそれを見つけてしまった。君の中の怒りは君を働かせ過ぎている。
「二酸化炭素排出量実質ゼロか。」
私は彼女の隣に座って彼女の肩を抱いた。恐らくそんなことでは彼女の怒りは消えないのだろうけれど、私に出来ることと言えばそれくらいなのであった。
「ねぇ。聞いてくれる?」
彼女は私の腕から離れて、新聞を元より綺麗に折り畳んでから、正面に向き合った。
「両性具有って言って分かるかしら。実は私は一時期そういう状態にあったことがあるの。」
両性具有は人間の場合、実際には存在しない。私の知る限りそれは想像上の概念だったが、しかし彼女はまるで裁判中かのような真剣な顔で話を続けた。
「私は生まれた時から決して可愛い女の子ではなくて、それは成長しても変わらなかった。
幸い勉強は出来たけど、でもそれは同年代の男の子にとって性的な魅力にはならなかった。生憎私の方も男子には興味がなくて、それは大きな問題ではなかったのだけど。その頃の私はいつもイライラしていて、正しくないと思ったことには怒りに任せて対抗していたわ。そんな状況が高校に入る頃まで続いて、年頃の女の子にとってそれが普通ではないことはもちろん当時の私も分かっていて、でも私どいういった原理で普通ではなくなってしまったのか理解することが出来ないでいた。そんなある時に祖母の家に遊びに行って、祖母が私の容姿について『たまたま女の子に生まれてしまったばっかりに可哀想に』と言っているのを聞いてしまったの。それは思春期の私にとって随分とショッキングなことではあったのだけれど、同時に私は何故か安心したような気持ちになった。私が女であることは偶然だったんだって。つまり私は男であった可能性もあったのだと気づいたの。だから私は私の中に男であった可能性の痕跡を探した。」
彼女は身体の隅々を入念に調べて、そして遂にその証拠を見つけた。
「幻影肢って聞いたことあるかしら?」
「事故なんかで身体の一部を失った後、それが無いにも関わらず存在するかのように感じる現象だね。」
「ええ。全くそれと同じように、私は自分の下半身に男性器の存在を感じるようになったの。性的に興奮すると勃起する感覚もあったし、私はそれを手で慰めてやることも出来た。私は偶々女に生まれたけれど、それはそのまま常に私が男でもあり得たという裏返しだった。」
「つまり必然の否定として、偶然は常に必然とともに共存している。」
「その通り。」
そして彼女は両性具有者となった。それは彼女自身の理解のために必要不可欠な概念だった。物事には必ず原因があって結果は必要である。しかしその結果にはそうはならなかった可能性が常に偶然性の中に隠されているのだ。
「そうやって私は私の中の怒りの正体を知ることが出来た。それは即ち"偶然性の問題"だったのよ。何故私たちの世界はこれほどまでに不正義に満ち溢れているのか。それは必然なのか。私はそうではないことを知っていたの。この世界の在り方には常にそうでない可能性が隠されていて、より公正な世界でもあり得たということ。私は男であり得たし、もしかすると黒人でもあり得た。あなたは女であったかもしれないし、あるいはハリネズミだったかもしれない。世界は石炭火力を必要としなかったかもしれないし、公害に苦しむ人がいる必要もなかったかもしれない。それを理解することで私の中の怒りは生産的なエネルギーに変わっていった。怒りは上手く使えばとても役に立つものよ。」
彼女はそこでミネラルウォーターを飲んだ。まるで水が触媒となって怒りをエネルギーに変えているかのように、彼女は私の服を脱がせてベッドに押し倒した。
「それで、君は今も幻影の男性器を持っているの?」
「いいえ。高校生の時に、当時こっそり慕っていた女の子に振られて以来、その感覚はすっかり消えてしまったわ。」
揺れる彼女の顔は少し寂しそうに見えた。
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