一、狂いの兆し

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一、狂いの兆し

 世界がおかしくなった。普通だと思っていたことが普通ではなくなった。原因不明の異常事態。殺し合う一般市民。悪夢のような現実。破滅へと向かう社会。絶望が未来を閉ざす。もう何もわからない。暗黒時代の到来だった。平穏な日常も安全な生活も失われてしまったのだ。――あれはその前兆だったのかもしれない。  時代は世紀末。一九九〇年代後半のこと。九〇年代といえば、国内ではバブル経済の崩壊に伴う急激な景気の悪化、未曽有の大震災、そして、カルト宗教団体によるテロ事件があった時代だ。  文化の面では終末ブーム、オカルトブームなどが興隆。一九九九年で人類が滅亡するとか文明が崩壊するとかいう終末論が流行した。終末をもたらすのは多国間の全面戦争とも大規模な天変地異とも考えられた。想定される事態としては核兵器を用いた戦争、地球規模の自然災害や気候変動だ。あるいは、人工知能の反乱によって壊滅へと至る、異星人の侵略を受けて滅ぼされる、といった荒唐無稽な説も唱えられた。  これらの風潮は七〇年代頃からあったようだが、好景気に沸いた八〇年代を経て九〇年代には、より歪んだ形で社会に暗い影を落としていたのかもしれない。病める時代の世相を反映していたともいえよう。また、一部では猟奇への傾倒、犯罪を賛美するといった悪趣味ブームがもてはやされた。  そうした時代の後半。ある地方都市の町で不可解な事件が起きた。図らずも事件に関わった当事者のひとりに学生の男がいた。町に住む平凡な大学生で年齢は二十一歳。どちらかというと、さえない男だ。もっさりした髪に不細工な顔、服装はいつもよれよれの服ばかり。顔は太い眉に垂れ目、丸く膨らんだ鼻が特徴で人柄がよさそうな印象はあるものの、不細工であることに変わりはないだろう。見た目がやぼったいだけでなく内気で自信のない男だった。  学校に通う以外に男はアルバイトをしていた。ひとり暮らしなので生活費を稼ぐためだ。学費は親が出してくれたものの生活に余裕があるわけではなかった。男の生活は、学校で過ごす時間とアルバイト先で働く時間とが大半を占めていた。休日は自宅でだらだらしていることがほとんどで、若者らしく友だちと遊びに行ったり恋人を作って青春を謳歌したりすることとは無縁の生活だった。  そうかといって学業の成績が優秀なわけではなかった。アルバイト先での働きぶりもしかり。むしろ仕事の覚えや要領が悪く、何度も同じ失敗を繰り返して職場の責任者や先輩から怒られることも多かった。  得意なことが何もなく、すべての能力が人並み以下。男もそのことを自覚しているため自信がなく、いつも不安でおどおどして、劣等感にさいなまれるばかりだった。自信がないから恋人を作ることもできず、つまらない毎日を過ごしていた。  ある夜、アルバイト先からの帰り道。男は人気のない道を歩いていた。時間は午後十時を十五分ほど過ぎた頃だろうか。アルバイトの退勤時間は十時頃だったはずだ。  男の服装は、白い無地のTシャツを着て、上に長袖の青いフランネルシャツを羽織っていた。しわくちゃのTシャツだ。フランネルシャツは縞模様の織り柄が色あせていた。いずれも着古したものだろう。下はカーキ(土埃)色の長ズボン、履物は甲部が黒く底部や靴紐が白のスニーカーだった。背には灰色のリュックサックを背負っていた。見た目のやぼったさが丸出しなのは上半身だけでなく、足もとを見れば裾の擦り切れたズボンに薄汚れたスニーカー。全身がみすぼらしい姿だった。  男は疲れた顔で下を向いて、とぼとぼ歩いていた。今日も仕事で失敗して怒られてしまったからだ。 「この前、教えたじゃないか。何度も言わせないでくれよ」  男は課長に怒られた。課長は職場の責任者で、アルバイトの人員に指示を出す役割も担っていた。温厚な人なので普段はあまり怒ることはないはずなのに。課長はずんぐりむっくりの中年男性だ。ぽっちゃりした小肥りの体型に丸顔という見た目からして、いかにも温厚そうな人物だった。しかし、男は怒られた。ひとえに仕事のできが悪すぎるからだろう。アルバイトは明日も出勤日。また失敗して怒られるのではないかと思うと不安だった。今度は先輩に怒られるかもしれない。 「何やってるんだ! もたもたすんな!」  課長も先輩も別に怖い人ではないのだ。先輩は確かに大柄な男で口調も荒く、いかつい顔をしているから見た目は怖そうだけれど、実はおおらかな人だった。男はつい先ほども、課長に怒られてしょげていたところを、先輩に励ましてもらったばかりだ。 「怒られちゃったな。ちゃんと憶えなきゃダメだぞ」  男がうなだれたまま、か細い声で「はい……すみません」と言うと、先輩は、「気にすんなって」と男の肩を軽くたたいた。それから、声を潜めて「課長、本気で怒ってねぇから」とささやいた。 「そうなんですか?」  男は面を上げて先輩の顔を見た。 「俺も怒られたことあるからわかるんだな。俺なんかさ、よりによって忙しい日に遅刻しちゃってよぉ。いやぁ、怒られたのなんのって。あのときは課長、本気だったと思うぞ。目がいつもと違ぇの。さすがに俺もびびったよ」  先輩は自分の失敗談を語って豪快に笑った。男の失敗を笑い飛ばしてくれたのだ。ただ、いうまでもなく、何度も同じ失敗を繰り返せば先輩も怒るだろう。不安は消えなかった。悪いのは自分なのだと男はわかっていた。  わかってはいるものの、どうしてもできないものはできない。努力が足りないと言われれば何も反論できず返す言葉に困るとはいえ、会話力も理解力も想像力も、男の能力では人並みにすら追いつかないというのが実情だった。  明日は日曜日だから学校は休みだけれど、学業の方もおろそかにはできない。試験までに復習しておかないとまた落第になってしまう。憂鬱だ。嫌なことばかりではないか。男はひとり夜道を歩きながら、ため息をついた。  うつむいていた男が顔を上げると、少女の姿が視界に入った。少女は、袖のない黒のトップに黒のスカートを着用、黒いブーツを履いていた。道端にひとりたたずんでいるようだ。黒いバッグを持っているのも見えた。肩紐付の小さなバッグだ。少女はバッグの紐を肩にかけていた。ブーツもバッグもエナメル加工された革製品のようで、表面にてかてかした光沢があった。この夜遅くに少女は何をしているのだろうか。街灯に照らされた少女の姿を、男は歩きながら注視した。  髪が短くて男の子っぽい少女だ。年齢は十代後半くらいだろうか。涼しい目もとが麗しく、かわいい子だった。顔は薄化粧で清楚だが服装は肌の露出が多く、上半身はほっそりした腕が肩の近くまで、下半身はすらりと伸びた脚が膝の上まで、あらわになっていた。ブーツの丈が膝下までなので脚の露出はあまり多くないものの、スカートとブーツとの間、膝のあたりだけ肌が見えているため、あらわになった部位が強調されて目を惹いた。ついでにいうと、細身なのに胸は大きそうだ。  知らない子だったけれど、好みの美少女なので男はつい気になってしまった。少女の美しさに魅せられてうっとりしていると、少女が振り向いて目が合った。  まずい。男はすぐ目をそらして自らを省みた。自分は今、にやにやしながら少女の顔を見つめていなかっただろうか。夜道で不審な男に見つめられたなどとして、通報でもされたらどうするのだ。男は思わず髪をかきむしった。もっさりした髪が少し乱れてしまった。しかし、男は、目をそらしてからも、少女が自分を見つめているような気がしてならなかった。まさか美少女に見つめられるなど。気のせいだろう。くだらない妄想だ。  さて、立ち止まっていた少女が歩き出した。コツコツコツと聞こえる足音。ブーツの底が路面を踏んで硬い靴音を響かせているのだ。ファスナーを開く音も聞こえた。バッグから何かを取り出しているのだろうか。男は少女を意識しないように歩いて通り過ぎようとした。だが、男はやはり、少女が自分を見つめながら、自分の方に近寄ってくるような気配さえ感じた。やがて、本当にすぐ近くまで来たので、男は少女が自分に何か用があるのだと認めざるをえなくなった。  もしかして、これは運命の出会いか。男は、美少女が自分に声をかけてくるかもしれないと思っただけで、不覚にも胸をときめかせてしまった。女に縁のない男とは愚かなものだ。美少女に話しかけられたとして、そこからどう発展があるというのか。別に興味を持ってもらえたわけでもなかろうに。落ち着け。何を期待しているのだ。  振り返って立ち止まる男。再び少女と目を合わせると、少女の目はなぜか鋭く男の顔をにらみつけていた。何やら様子がおかしいではないか。初対面なのに敵意を向けられるとは。嫌な予感がした。男は少女を怒らせるようなことを、何かやらかしてしまったのだろうか。不安になりつつ、「あの、何か用」と言いかけた瞬間、少女の片腕が男の腹に向かって勢いよく突き出された。 「んぐっ!」  突然の鈍い音に驚くとともに、男は腹に激痛が走るのを感じて、うめき声を洩らした。何が起こったのか。よく見ると、突き出された少女の左手には刃物が握られていた。そして、刃物の先は男の腹に突き刺さっていたのだ。刺されたところを中心に、血で赤く染まってゆく白いTシャツ。少女が刃物を引き抜くと、腹の傷から血がほとばしり出た。 「ひやぁぁぁっ!」  甲高い悲鳴をあげて錯乱する男。少女の手を見ると今度は刃物を逆手に持って、また男を刺そうとしているではないか。刃物を持っている方の手や腕に返り血を浴びつつも、少女は無表情のまま、無言で男に襲いかかろうとしていた。  どういうことだ。殺される。ひとまず逃げなくては。男はその場から逃げ出した。片手で腹の傷を押さえつつ夢中で走って逃げた。どこをどう走ったかわからないが、気がつくと男は通行人のひとりにぶつかっていた。  通行人はふたり連れの若い男だった。ひとりは、フード付のスウェットシャツを着て野球帽をかぶった男で、もうひとりは、上下にトレーニングウェア(ジャージ)をまとった男だ。夜なので暗くてよく見えないが、スウェットシャツは白っぽく、トレーニングウェアは黒っぽかった。野球帽の男は、頭が帽子で隠れているが髪は短いだろう。トレーニングウェアの男は口ひげを生やした髭面で、煙草をくわえていた。頭髪は短く刈り上げた髪型だった。ふたりとも強面で柄が悪そうだ。刺された男がぶつかったのは、野球帽をかぶった男の方だった。 「うわっ! 何だよ、こいつ! 痛ぇな」  体がぶつかった瞬間、野球帽の男は声を荒らげて、不快感をあらわにした。ふたり連れは初めのうちこそ、「おい! どこ見てやがる!」「気をつけろ!」などと怒号を発したものの、ぶつかってきた男が恐怖におびえた顔をして、腹から血を流していることに気づくと、顔色が変わった。 「どうした!? 血じゃねぇか!」「兄ちゃん、ケガしてるのか?」  柄の悪そうな見た目に似合わず、ふたり連れはたがいに顔を見合わせつつ、心配そうに男の様子をうかがっていた。ふたりとも悪い人ではなさそうだ。腹を刺された男は、ふたり連れの通行人に助けを求めた。 「すみません! 助けてください!」 「何があった?」「だれにやられた?」  ふたり連れは男に事情を尋ねた。 「女……女です。女に刃物で襲われました」  取り乱した様子でそう答える男。「あんたを襲った犯人――その女、まだ近くにいるのか?」とも問われたので、あの子が自分を追って近くまで来ているのではないかと、あたりを見回したが少女の姿はなかった。  男のそばにふたり連れがいるからだろうか。刃物を持っているとはいえ、あの子は少女だ。ふたり連れの若い男が相手では敵わないだろう。殺し損ねた男を追うのはあきらめて、退散したのかもしれない。  トレーニングウェアの男が、近くの電話ボックスに駆け込むのが見えた。駆け込む前に、くわえていた煙草を投げ棄てていた。投げ棄てられた煙草の吸殻は路面に落ちて転がった。吸殻の先から煙が立ち上っていたので、火がまだ点いているようだったけれど、今はそれどころではない。  透明なガラス張りの電話ボックス内で、トレーニングウェアの男が緑色の受話器を手に取って通話する姿が見えた。公衆電話から救急車を呼ぶとともに、警察にも通報してくれたようだ。  ほどなくサイレンの音が聞こえた。道路の向こうから赤色灯の回転や点滅が近づいてくるのが見えて、救急車が先に到着。少し遅れてパトカーも到着した。刺された男は救急車に乗せられて病院へと運ばれていった。
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