二、入院生活

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「よう! カズ。生きてるか?」  ベッドの上に横たわった男が呼びかけられて振り向くと、目の前に友人が立っていた。男のベッドは病室の窓際にあった。男はベッドの上で上体を起こして、窓の外を見ているところだったのだ。  男の衣類は上下が分かれた病衣を着用していた。淡い緑色の病衣だ。もっさりした髪はぼさぼさで病衣を身にまとった男に対して、友人は茶髪でしゃれっ気のある髪型、真っ赤なTシャツに藍色のジーンズという服装。ふたりは、同い年の若者と思えないほど容姿に差が出ていた。 「タモっちゃん! よく来てくれたな」  男と友人のふたりはまず、たがいの名を愛称で呼び合って挨拶を交わした。病室に入ってきた友人は挨拶を交わすなり、ベッドの前に立ったまま、息をつく間もなく事件のことを尋ねてきた。まだ詳しくは話していなかったからだろう。犯人が女の子だったと言うと、男は友人に笑われてしまった。 「冗談よせって。おまえ、その子に何かしたのか?」 「笑うな。こっちは被害者なのにさ。やましいことでもしたみたいな言い方は心外だぞ」  男はむっとして口をとがらせた。友人は、「悪ぃ、悪ぃ」と謝りつつ、「おまえのケガ、思ったほど重傷じゃないみたいでよかったよ」とも言って、安堵の気持ちを表現した。 「俺だってな、刺されたって聞いたときは心配したんだぞ」  急に低くなる友人の声。重みを帯びた口ぶりだ。立ったままだった友人がようやく腰を下ろした。椅子がなかったので、ベッドの上に座った。友人は真顔になっていた。 「ほんとかよ?」  わざとふざけた調子で、半信半疑な顔をしてみせる男。思いがけず低い声を出されて、口ぶりも重かったから、なんだか気まずくなったのだ。気まずさをごまかそうとしたら、ふざけた調子になってしまった。 「ああ、もちろん。本当だとも。犯人、早く捕まるといいな。ケガが治って退院できたらお祝いしよう」  友人の声はいつもの明るい調子に戻っていた。 「お、いいねぇ」  退院祝いか。友人の発言を聞いて、男は頬を緩ませた。  ところで、友人は見舞いの品を持参してくれたようだ。何かと思えば箱入りの洋菓子だった。個包装されたレーズンサンドが十二個入り。ラム酒に漬け込んだ干し葡萄とバタークリームを、クッキーではさんだレーズンサンドだ。男の好物ではないか。 「よし! これでも食って元気を出せ」  友人は男を励ました。 「ありがとう。恩に着る」  友人に感謝して礼を言う男。友人は笑顔で「応!」と答えた。  しかし、レーズンサンドが十二個入りというのは、ひとりで食べるにしては数が多すぎるのではないだろうか。男は箱を開けたものの、まだ手をつけないでいた。すると、「食わないのか?」と友人に促されたので、ひとつ個包装を開けて口にしてみた。クッキーは柔らかく、しっとりとした歯応えだ。濃厚なバタークリームの甘みと、ラム酒の染み込んだ干し葡萄の甘酸っぱい味とが、口のなかに広がった。 「うん、うまい!」 「それはよかった」 「おまえもひとつ食え」  男は、一個目のレーズンサンドを咀嚼して飲み込むと、二個目の個包装を開封。そして、二個目を口に運びつつ友人にも勧めて、ひとつ食べさせた。うまいのは確かだが男は二個でもう満足だった。しばらく食事を取っていなかったせいで、胃が小さくなっていたのかもしれない。  見舞いの品だけでなく、友人は、携帯用のオーディオプレイヤーと、音楽を収録したディスク(MD)、音楽雑誌も持参していた。オーディオプレイヤーは貸してくれるそうだ。自宅に、音楽CDの再生もできるラジオカセットレコーダーがあるので、携帯用の方はなくてもかまわないから、退院するまで貸してやると友人は言った。  持参したディスクには友人の選曲で、おすすめの楽曲が収録されているそうだ。友人の所持している音楽CDから録音用のディスク(MD)に、わざわざ録音してきてくれたのだという。入院中は暇だろうから、音楽を聴いて過ごしたらどうかと言って、友人は男にディスクを渡した。  それから、友人は音楽雑誌を開くと、注目のロックバンドについて語った。雑誌には、バンドメンバーの写真が掲載されていた。顔の化粧が濃く、長い髪を赤、青、黄といった派手な色に染めたバンドメンバーの写真だ。メンバーは全員男だが、黒を基調とした華やかな衣装を細身の体にまとった容姿は耽美で、女かと思うようなメンバーもいた。  こういう化粧をした男性のロックバンドが今はやっているのは、流行に疎い男でも知っていたけれど、男がそういうロック音楽を聴くようになったのは、友人に勧められたからだ。勧められていなかったら、はやっていることくらいは知っていても、聴くようになってはいなかっただろう。  曲を聴いてみようか。男は、ディスクをオーディオプレイヤーに挿入すると、イヤホンを装着して再生ボタンを押した。雑誌に掲載されているバンドの曲だという楽曲が、イヤホンから流れた。  低い歌声を響かせつつ、ときおり発狂したかのように叫んだり奇声を発したりするボーカル。増幅器で歪ませた音を刻むように奏でるギター。シンバルの甲高い金属音、タムの跳ねるような音、スネアドラムの硬い中音とバスドラムの重低音とを、ひたすら速く打ち鳴らすドラムス。過激な曲だ。歌も演奏も粗削りで聞き苦しいところはあるものの、男はその曲に、聴き手を圧倒する勢いを感じた。  男がイヤホンを外すと、友人が解説を始めた。このバンドはまだ結成されたばかりのインディーズバンドなのだが、前身バンドが人気だったこともあって、注目のバンドなのだとか、ファーストアルバムがメジャー流通で発売されたのだとか。インディーズ? メジャー流通? 男には何のことかよくわからず、きょとんとした顔をしていると、友人が説明してくれた。 「インディーズっていうのは、大手のレコード会社じゃなくて、レコード協会にも加盟していない独立系レコード会社のことさ。メジャー流通は、発売元はインディーズだけど販売元は大手で、流通だけメジャーの流通形態を取るというものね。メジャー流通になると、インディーズで制作した曲のCDやテープでも、全国のレコード店に置いてもらえるようになるみたいだぜ」  いつの間にそこまで詳しくなったのだろうか。友人が、音楽が好きなのは知っていたものの、こういうロックバンドの曲を聴くようになったのは、確か今年になってからで、以前はアニメソングとかを中心に聴いていたはずなのに。  男と友人とが親しくなったきっかけは、アニメだった。OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)と呼ばれるビデオアニメだ。OVAとは、テレビ放送でも劇場公開でもなくビデオソフトでの販売を行うアニメ作品で、主にアニメファン向けに作られていた。八〇年代に世界初のOVAが作られて以来、九〇年代に至るまで、名作、凡作のみならず珍作も含めて、多くのOVAが制作された。  OVAはアニメファン向けの作品なので、一般向けのテレビアニメよりも自由な表現、過激な描写があるところも、魅力のひとつだった。高校生の頃、男がOVAのビデオテープを買い漁ったりレンタルビデオ店で借りたりして、よく観ていたところ、友人も興味があると知って、ふたりは意気投合したのだ。  ――小一時間、ふたりで雑談したのち、「じゃ、お大事に!」と言って友人は帰っていった。友人が来てくれたことで男は少し気が楽になった。病院での生活が意外と快適だったため、疲れているという自覚はなかったものの、刃物で刺されて入院しているのだ。心身ともに疲れがあって当然だろう。男は、見舞いに来てくれる友人が自分にもいたことを、ありがたく思った。  ところで、女の子に刃物で襲われたというのは不自然だろうか。男は犯人が少女とばかり思っていたが、犯人は始終無言だったため、声を聞いてはいなかった。実は犯人は男で、変質者の男が女装していただけなのかもしれない。それも警察の捜査が進めばわかることだろう。  短い髪の少女といえば、男は同級生の女の子のことを思い出した。小学校の同級生だ。男にとっては初恋の人といえるかもしれない。当時、髪が短くて男の子っぽい子だった。活発でよく気が利く子。しっかり者のお姉さんといったところか。確か学級委員長をやっていたような――。  あの子には気の強いところがあって、男がいじめっ子の男子数人にからかわれていたとき、かばってくれたことがあった。 「こら! あんたたち。何やってんのよ!」  女の子がたったひとりで毅然として男子数名に立ち向かう姿に、男は胸を打たれた。両手を腰に当てて身を乗り出す姿に、強い女を見たのだ。見た目が男の子っぽいだけでなく性格も男勝りな子だったので、男子たちからは、陰でオトコオンナなどと渾名されることもあったけれど、男はあの子が好きだった。  しかし、思いを伝えるには至らなかった。伝える機会がなかったからと言いたいところだが、たとえ機会があったとしても実行する勇気はなかっただろう。当時から内気で口下手だった男が、恋心を本人に告げるなどできるはずもないことだった。何の発展もなく終わった淡い初恋の思い出だ。あの子は今頃どうしているだろうか。
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