三、凶行は惨たらしく

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 コツコツコツと迫る足音。何を言っても少女は無表情のまま、ブーツの底で床を踏んで硬い靴音を響かせながら、男の方へと近寄ってくるではないか。そして、無言で刃物を振り上げて男に襲いかかろうとした。 「っ――!」  思わず身構えて目をつぶる男。恐怖感から無意識のうちに防衛本能が働いて、防御の体勢を取ったのだろう。だが、次の瞬間、少女の首がなくなった。 「――え?」  突然、鈍い音がしたので目を開けると、信じがたい光景が網膜に映った。首が宙を舞ったのだ。背後からの一撃によって鈍い音とともに――。男は驚きのあまり、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。  突如として鈍く鼓膜に響いたのは、肉を切る音、骨を断つ音だった。少女の肩と肩の間、首があったはずのところには、生々しい人体の断面が見えた。肉や骨(頸椎)、気管、血管の断面だ。断たれた血管(頸動脈)から、びちゃびちゃと音を立てて噴き出る血液。赤い鮮血。落ちた首はごろりと床に転がった。首を失った少女の体は、刃物を持った手を振り上げたまま動かなくなって後ろに倒れた。  少女に襲われかけた男が状況を飲み込めないまま呆然としていると、少女が立っていた位置の斜め後ろから、やいば(白刃)を手にした男が現れた。黒い長袖のシャツに暗褐色の布を羽織って、暗緑色の長ズボンをはいた男で、履物は登山靴のようにごつく頑丈な作りをした焦げ茶色の革靴。長身痩躯の中年男だ。眼光が鋭く、ざんばら髪で無精ひげ(鼻下の髭、顎の髯、頬の鬚)を生やしていた。山賊のような風貌といったところか。室内が薄暗いため、衣類の暗褐色や暗緑色は黒っぽく見えた。  中年男が手にしたやいば(凶刃)は、刃物というより刀剣だろう。一本の大きな刀剣だ。中年男は刀剣の柄を両手で握って持っていた。それは片刃の刀剣で刃渡りがあまりに長く、まるで昔の武士が腰に帯びていた刀のようだ。あの刀で少女の首を斬り落としたのだろうか。長い刀身から滴る鮮血。中年男は、刀身についた血を払うため刀をひと振りした。小さく飛び散る血しぶき。そして、不機嫌そうに少女の死体を見下ろすと、「小娘の分際で手こずらせやがって」などとつぶやいていた。少女が何か、この中年男を困らせるようなことをしたのだろうか。  いずれにせよ、少女は首を切断されて死んだ。血まみれの床に転がっているのは、切断された首と首のない死体。胴体の方からはまだどくどくと、赤黒い血が止めどなく流れ出していた。目の前で行われたのは惨たらしい殺人だ。血の臭いもするではないか。  理解がようやく追いついたところで、男は吐き気を催して嘔吐した。胃に収まっていた食物は、胃液とともに食道を通して咽頭まで逆流。全部、吐き出されてしまった。口のなかに広がる胃酸の味。吐き出された胃の内容物は少量で、粥状になっていた。夕方の病院食は胃に入ってから五時間以上が経過、夜食のレーズンサンドについても三時間以上が経過していたため、すでに消化されていたようだ。  男は目を充血させて涙目になりつつ、刀を持った中年男に、「人殺し!」と罵声を浴びせた。中年男は、「何言ってやがる。こいつはおまえを殺そうとした女だぞ」と、少女の死体に視線を落として、吐き捨てるように言った。「いや、だからって殺すことはなかった。刃物を取り上げるだけでよかったじゃないか!」と男は反論したが、無視された。相手にするまでもないということか。ずいぶんと見くびられたものだ。  ただ、これだけの騒ぎを起こしたのだから、だれかが気づいて警察に通報するだろう。もしかしたら、もう通報してくれたかもしれない。ともあれ、「じきに警察が来るはずだ」と男が虚勢を張ると、中年男は口を歪めて鼻で嗤った。「おまえ、何も知らねぇのか」と冷笑した。どういうことだ。男が困惑していると、中年男は不気味な笑みを浮かべながら答えた。「この町にはなぁ、警察なんてもう存在しねぇも同然なんだよ」と――。 「うそだ! でたらめを言うな」  男は語気を強めて言い返した。 「信じようが信じまいが好きにしろ。どう思おうと、おまえはもうすぐここで死ぬんだ」  中年男はそう冷たく言い放って男に刀を向けた。男は恐怖に戦慄して背筋が寒くなった。待ってくれ。なぜ殺されなければならないのだ。助けてくれたのではなかったのか。おびえて引きつった男の顔を、中年男は蔑むように見た。冷酷な眼差しだ。 「おまえみたいな弱者は、放っといたってすぐ死ぬだろう。わざわざ殺してやるまでもねぇが、目についたからにはしかたあるまい」  中年男の言葉が男に死の宣告を伝えた。
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