四、血と猟奇

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四、血と猟奇

 いや、待て。焦ることもなかろう。ここは病院なのだから医者くらい何人でもいるではないか。切断された指も、接合手術を受ければ治るかもしれない。男は再びナースコールの呼び出しボタンを押した。何度か押してみたけれど、やはりだれも駆けつけてくることはなかった。  しかたがない。呼びに行くか。男はスリッパを履いて立ち上がった。病室の外に出て医者を呼ぶためだ。その前に病衣の上が血や嘔吐物で汚れていたので、ベッドシーツの切れはしでふき取ろうとした。  少しふいたくらいで汚れがすべて落ちることはなかったものの、気にしている余裕はなく、切断された指を拾うと、男は医者を呼びに病室から出た。床の上に散らばっていた四本の指を床から拾い上げたのだ。拾った指は、引き裂いたベッドシーツにくるんで持った。だが、男は病室を出て廊下の角を曲がったところで、惨状を目の当たりにしてすぐ引き返すことになった。  そこには、おびただしい数の死体が散乱していたのだ。死体の数は人数にして十人以上だろうか。どの死体にも着衣がなく全裸で床の上に横たわっていた。床一面に赤黒い血溜まりが広がっているので、殺戮が行われたことは明らかだが、死体の状態も異常だった。どの死体も損傷が激しく、まるで解剖でもされたような状態ではないか。  頭蓋を取り外されて脳がむき出しになっていたり、腹を切り開かれて内臓がとび出していたり、切られた肉の裂け目に黄色い脂肪が見えていたり。おぞましい大量虐殺だった。男にとって、実物の脳や臓器を見るのは初めてのことだ。  これが脳のしわか。表面に溝が刻まれていた。前頭葉、側頭葉などに分かれた大脳と、神経細胞が集まった小脳、脊髄につながる脳幹。脳に張り巡らされた血管は赤い毛細管が透けて見えた。  臓器の方はどうだ。床の上に転がった肝臓は腹腔から摘出されたのだろう。開かれた腹腔内にあるのは、対になった腎臓、食道と十二指腸とにつながる胃袋、はらわた(腸)の長い管。脾臓、胆嚢、膵臓など。表面が薄い半透明の膜(漿膜)で覆われていた。臓物のぬめぬめした質感に男は嫌悪感を覚えた。  廊下の床は血の海だ。腹を切り開かれた死体のひとつは、開腹部に肋骨と内臓が見えた。白っぽい肋骨の間から、はらわたが外に出ていた。大腸や小腸の長い管路が血の海へと引きずり出されていたのだ。  開腹部が空っぽの死体もあった。はらわたはどうしたのだろうか。床のどこかに散乱しているのかもしれないが探す気力はなく、血と臓物の臭いに、男はまた吐き気を催して嘔吐した。先ほど少女の斬首死体を見て吐いたばかりだったため、胃は空っぽで胃液しか出なかったが――。 「畜生、異常者め!」  男は声を押し殺しつつ悪態をついた。この惨状を作り出したのはどこの狂人だ。先ほどの刀を持った中年男か。それとも、危険人物がほかにもまだいるというのか。やめてくれ。頭がおかしくなりそうだ。  刀の中年男は、警察はもう存在しないも同然などと言っていた。にわかには信じがたいことだが、この異常事態を目にすれば、でたらめな発言とも思えなくなってきた。大声で助けを呼んでも、いくら騒ぎを起こしても、だれも駆けつけてこないことからすると、もしかしたら、ここで行われた殺戮のみならず病院の外でも何か恐ろしい大事件が起こっているのかもしれない。してみると、先ほど窓の外から爆発のような音が聞こえたのも、気になるところだ。  男は廊下から引き返して病室に戻った。シーツにくるんだ指をベッドの上に置くと、何か武器になりそうなものを探した。廊下に出るとなれば、異常者がどこかに潜んでいるかもしれないからだ。病室にとどまっていた方が安全なはずだが、あいにく男は、負傷した手を治療しなければならなかった。痛みが引かず消毒もできていない状態だ。医者を頼ることができないとすれば、消毒液や鎮痛剤を自分で探してこなければならないだろう。だから、病室にとどまっているわけにはいかなかったのだ。  武器になりそうなものといえば、死んだ少女が刃物を持っていたではないか。男はふと思い出して、病室の床に転がる死体に恐る恐る近づいた。廊下に散乱している死体ほどではないものの、少女の死体に近づくと血の臭いがきつくなって、男は顔をしかめた。刃物は少女の手に握られたままだった。  手に触れるとまだぬくもりはあったが、こわばった感触だ。刃物を手から取り去ろうとしたところ、固く握られた少女の指は死後硬直でもしているのか、うまく引き離せなかった。男は片手が使えない状態だから、もう片方の手だけを使って少女の手から刃物を取り去ろうとしたのだけれど、思いのほか取りづらく力んでしまった。刃物の柄を握ったままの指を引き離すと、ようやく取り上げることができた。
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