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1.好々爺は背が伸びそう
自慢ではないが、会社勤めを始めてからというもの、一度たりとも誰かに感情を剥き出しにしたことがない。
元々争いごとを好む方でもないので、無理して続けてきたつもりもないが、周りから「場が和む」だの「好々爺」だのとからかい半分で言われることも、親しみが込められているように感じて悪い気はしない。間もなく迎える定年までは、この印象を保ち続けたいと願うほどだ。
私は勤続35年。長い年月を会社員としてやってきた。理不尽な扱いを受けることや不満に思うことがなかったわけではない。
だが、授かった素晴らしい能力、そう、想像力だけを頼りに、これまでの苦難を乗り越えてきたのだ。
今日もまた、私の想像力は試されている。
外は雨。梅雨時の満員電車は、居心地のよい空間とは呼べない。車内に押し込められた人々の濡れた傘によって、湿った空気が充満していた。
つり革につかまった私の横では、ガラの悪そうな若者が夢中でスマートフォンを操作している。狭い空間で耐えている周りの迷惑も顧みず、腕を忙しそうに動かしているさまは褒められたものではないが、熱中しているものがあるというのは良いことだ。ここは、大目に見てやろう。
だが、その若者がズボンの腰に引っ掛けている傘の方は問題だ。先程から電車が揺れる度に傘も揺れ、私の足にまとわりつくので、大事なスラックスが傘についた水滴をぐんぐん吸い込んでやっている。これでは駅までの道中を傘に隠れるようにして雨から守り抜いた、私の努力が台無しではないか。濡れた自分の傘ぐらい、他人に触れさせないようにしっかりと手で持っておけば良いものを。
怒りの感情をぐっと堪え、私はそっと目を閉じる。
そう。想像力を発揮するときが来たのだ。
――ここは見知らぬ診療所。足元がひんやりとしているのは、白衣の天使が屈み込み、液状の薬を塗ってくれているからだ。
――塗っているのは肉体改造の薬らしい。背は高くなり、全身の筋肉も太くなる。着ている服が粉々に千切れてしまうほどなのだそうだ。
目を閉じたままの私の心は、途端にほぐれていく。なにしろ現れる効果が楽しみで仕方ない。
そういえば、来月には同窓会の予定があったな。再会する懐かしい面々の驚く顔が目に浮かぶ。私はクラスでも一番小さく、痩せ細っていたのだ。
目を開けると、ガラの悪そうな若者はいなくなっていた。
恐る恐る見下ろしてみたが、いつもの小柄な身体が首の下には付いていた。私の屈強な肉体に、恐れをなして逃げ出したわけではなさそうだ。
良かった。服が粉々に千切れていなくて。
ライド・ザ・ウェイヴス。
こうして、私は世間の荒波を乗り越えていく。
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