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1.妻、夏のある日
「ちょっと、雨降ってきたじゃない」
窓に打ち付ける激しい雨音。よっこらしょと立ち上がり膝の痛みに呻く。最近太ってきて急に動くと膝が痛い。
「ああ、やだやだ」
急いで庭に出て洗濯物を取り込んだ。何とかあまり濡れずに済んだようだ。私は夫のパンツを指先でつまみ放り投げる。
「あいつの下着は自分で洗わせようかしら」
ひとつ年上の夫は五十五歳。どこにでもいるような冴えない中年男だ。今年で結婚三十年になる。新婚当初は夫の下着を洗うのも苦ではなかったが今では見るだけでゾッとする。一男一女に恵まれたが子供らはとっくに独立してこの家には私と夫の二人きり。まったくもって気が滅入る。これまでも熟年離婚の文字が何度も頭を過ったが夫は浮気をしたわけでもなければ暴力を振るうわけでもない。ただつまらない人間、私を苛つかせる人間、というだけだ。このまま離婚をもちかけたとしても微々たる預金を折半して終わり。それなら定年まで待って退職金が入ってから離婚する方が得策だ。そう自分に言い聞かせて我慢している。一応パートはしているが月に数万。これでは暮らしていけない。かといって子供に迷惑をかけるわけにもいかず手に職をつけてこなかったことを悔やむが今さらどうにもならない。夫の退職金が入り年金がもらえるようになるまではとにかく我慢するより他ないのだ。
夫は本当に腹の立つ男で、私が話しかけても「ああ」とか「うう」とか言うばかりでまともに反応しやしない。休日になればゴロゴロしながら本を読むだけ。出会った頃は物静かで優しい男と思ったが何のことはない、ただの面白味のないヤツだった。子供が独立して二人きりになり、最初は一緒に買い物に出かけようとかたまには外食しようとか誘ってみたのだがその度にとても嫌そうな顔をされた。それでもう誘うのは止めた。でも一番腹が立つのは「太ったなぁ」だの「少しは痩せればいいのに」だのと聞えよがしに言い、人をまるで家畜でも見るような目で見ること。「ジムに行くような金も時間もないし家族の残した食事をもったいないから食べてたらこうなったのよ!」と反論したこともあるがフンと鼻で笑われた。あの瞬間、本当に殺してやろうかと思った。手元に刃物があったらどうしていたかわからない。
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