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漆黒の髪を気ままに風に靡かせて、白いドレスの裾もはためくに任せて。
シルヴィアナは青空の下に威容をさらす、白亜の館を仰ぎ見た。
「レイノルズ伯爵邸。噂に聞く以上に美しいこと。私が余生を送るには贅沢過ぎないかしら」
小首を傾げて口元に笑みを浮かべて呟くと、馬車から誰の手も借りずに下りる。
(最初の結婚は十六歳のとき。家同士の力関係、しがらみ、大人たちの思惑。私の意思などどこにもなく、嫁がされた相手は八十歳の御大。夫の死によって私が「未亡人」となるまではそこから十年。実家に戻ってここ二年、喪に服すという名目でようやく静かに暮らせていたのに。なんということでしょう、二度目の結婚ですって)
駒なのだ。男たちが紫煙をくゆらせて、蒸留酒片手に気ままに盤上で動かす名もなき兵隊。ときに騎士に蹴散らされ、僧侶にすら足蹴にされ、戦車に粉砕される。
伯爵令嬢として生まれたことは、シルヴィアナの人生を決して豊かにも輝かしいものにもしなかった。
あそこに嫁げと命令され、今度は向こうだと言われ、抵抗することも許されずに今回もまた、ここまで来てしまった。
二十八歳、再婚。そんな女を欲しがるなんて、碌でもない男に違いない。
胸の中では散々悪態をつきながらも、慣れた愛想笑いを扇の影に浮かべて軽やかに歩みだす。
(レイノルズ伯爵といえば、五十歳絡みのおじさまだったはず。どうせ、私のことを妖艶な毒婦だと思い込んでいるのでしょう。これまで随分揶揄されてきたもの。それもこれも、亡夫がひどく嫉妬深く、まだ少女の年齢だった頃から私を、決して自分のそばから離さなかったから。あれほどのご老人が片時も手放せないとは、さぞや閨事も念入りに仕込まれていて、男を飽きさせないに違いない、と)
年齢差六十四歳。十年の結婚生活で、子どもはいない。それでもずっと周囲からのチリチリとした嫌な視線を感じていた。
それでいて、顔を合わせれば皆上品に笑って「仲睦まじいですね」と褒めそやすのだ。「愛に年齢なんて」という美辞麗句を並べ立てながら。
かつてのシルヴィアナは、笑ってやり過ごすことしかできなかった。
親よりも祖父よりも年上の夫から感じていたのは、ただただ度が過ぎた執着と、若く美しい娘を侍らしていたいという顕示欲だけだったというのに。愛?
今、同じことを目の前で言われたら、相手の喉に扇を突き刺してやる、とひそかに決意を固めている。
暗黒に染め上げられた日々を、そんな言葉で濁されてなどやるものか。
柱廊玄関前には、屋敷の主だった使用人たちが集められているようだった。一応は、この若くもない奥方を歓迎してくれているらしい。
颯爽と進み出てきたのは、癖のない金糸の髪に碧玉の瞳の、年若い青年。甘く端正な顔立ちで、お仕着せとは思われない白いジャケットを身に着けており、独特の存在感がある。
(家令にしては若いし、何者かしら。もしかしてご子息?)
扇の影からさっと視線をすべらせた限り、伯爵本人らしき男性は見当たらない。自分が不在のため、息子を出迎えに出したのだろうと、あたりをつける。
シルヴィアナは扇を畳んで、青年の方へと歩み寄った。
どうせもう「ご令嬢」などという可愛らしい年齢でもないのだ。軽くいなして義母としての貫禄でも見せつけてみよう。あまり趣味のよろしくない思いから、青年に艶然と微笑みかける。
途端、青年がぱっと顔を輝かせた。
「お待ちしていました、シルヴィアナ様。このたびは私からの申し出を受けてくださってありがとうございます。あなたをお迎えするために、ここのところ屋敷中上を下への大騒ぎでしたが、どうにかこの日に間に合いました」
(……子犬っ)
まるで尻尾をぶんぶん振って愛想を振りまく愛玩動物のような愛くるしさに、めまいがした。
自分の子どもを腕に抱くことは叶わなかったが、こんな可愛らしい息子が出来るなら、結婚も悪くないかもしれない、と一瞬考えてしまうほどに。
すぐにそんな幻想めいた考えを振り払い、(どうせ私は世間では毒婦ですから)とありったけのネガティヴな感情をかき集めて、唇にアンニュイな笑みを浮かべてみせる。
「歓迎してくださってありがとうございます。私は決して若くないとはいえ、あなたのお義母様としては年齢が少し近いようにも思いますが、どうぞ仲良くしてくださいね」
「お義母様? シルヴィアナ様が私の? ああ、もしかして、私が早くに母を亡くしたことを気にしているのですか。ご心配なく。私は妻に母性を求めるつもりはないです。婚約前に仲を深める機会を持てなかったのは残念ですが、これから式までの間にぜひ、恋人として甘いひとときを送りましょう」
「妻? 恋人? 甘いひととき?」
この青年はいったい何を言い出したのだろうと、シルヴィアナは思わず聞き返してしまった。
その戸惑いをどう受け取ったのか、青年は焦ったように早口で付け足す。
「『ひととき』という言葉が誤解を生んでいたら謝ります。恋人としてのひとときの後には、結婚によって、永遠の幸せを。二人一緒に、この先長い人生を歩んでいきましょう」
「義理の息子と?」
話が飲み込めないまま、確認の意味を込めて尋ねる。
そこでようやく青年も「あれ?」という顔になった。
すぐに、若い貴族らしい余裕のある笑みを浮かべると、何事もなかったように言う。
「シルヴィアナ様、立ち話より、屋敷の中へどうぞ。私たちはゆっくり話す必要があるようです。申し遅れましたが、私の名前はナサニエル。この屋敷の現当主で、レイノルズ伯爵と名乗っています」
シルヴィアナは、目を瞬き、相手にだけ聞こえる声量で「本人?」と囁いた。
レイノルズ伯爵ことナサニエルは、「はい」とはっきりとした声で答えた。
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