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10 番外編
残っている暑さのなかに、秋の香りが混ざり始めている。
タクシーから移動した俺たちは、空港へと入った。混雑しているわけでもなく、ほどよく空いている。
空港内に入ったのは久々で、俺はキョロキョロと辺りを見回した。
「成海くん、ここで大丈夫だよ」
「あ、そうか……」
人が少ないところで明は足を止める。通路の端で俺たちは向かい合った。
いつも通りにいようと思うのに、落ち着かず何度も髪を触る。明も同じなのか、今日は口数が少なかった。
「……成海くんは電車で帰るんだよね。気をつけてね」
「あぁ……俺は乗っていればすぐ着くし、明こそ気をつけてな」
「それを言ったら俺だって、座って寝てたらすぐ着くよ」
「いやすぐではないだろ……」
ついに今日、明が帰ってしまう。決まっていたことなのに、この日が来なければいいと何度も思った。
黙っている俺たちの横を、騒がしい集団が通っていく。
「……不安?」
「え?」
これから何度だって会えるし、いつでも連絡を取り合える。ただ少し遠くにいるだけ。
そう考えようとしていた俺の押し留めきれなかった不安を、すくい上げる明。
優しく微笑みながら、明は俺を見ていた。その優しさに促されて言わずにおこうと思っていたことを吐き出す。
「明のなかで、いつかどうでもいい存在になるのが怖い……離れても大丈夫だってわかってる。でもやっぱり、不安をなくしきれないんだ。ごめん、こんなの、明を信用しきれてないのと一緒だよな」
「……ううん。一万キロちかく離れてるんだもん、不安があるのは当然だよ」
飛行機で片道約10時間、16時間の時差。
再会し同じ時間を過ごし、明を好きになる度、嫌われたくないという想いも強くなった。
距離なんて関係ないとも思うのに、明の中の俺が薄くなっていかないかと恐怖もある。
その怖さを今日まで、消せずにいた。
「……成海くんは覚えてるかな? 昔、よく公園で近所の子たちとサッカーをしてたよね。学校が終わってから夕飯の時間まで、毎日。俺はその輪になかなか入れなくて……」
「え、あぁ、子供の頃のことか」
うん、と頷いた明は目を細める。昔を懐かしむ彼の表情は絵になって、目に焼きつけようと静かに見つめた。
「ある日、家にいた俺に、成海くんがボールを持ってきてくれてさ。皆の中に入れるんじゃなくて、一体一で向き合ってくれるのが嬉しかった。……成海くんは俺にとってヒーローなんだよ。子供の頃に好きだったヒーローを忘れることはないし、嫌いになることなんて絶対にない。成海くんのことがどうしようもなく大好きで、これからも離れる気はないよ」
「……そっか。俺も、明から離れないからな」
「うん、知ってる」
明に不安を溶かしてもらうのは何度目だろう。優しさと愛しさが伝わる度に、泣きそうになる。少しでもいいから、俺のこの気持ちも伝わってくれと願った。
腕をのばすと、どちらともなく、目の前の体を抱きしめる。途端に明の香りがして、大きく息を吸い込んだ。いつまでも俺の中に染み付いて欲しい。
「まだ一緒にいたいなぁ……」
「うん」
お互い口にするのを躊躇してた言葉。絞り出すようにこぼした明に、胸が切なく軋む。
言葉で伝えきれないのがもどかしく、熱い想いが喉を締め付けた。
「……たった一万キロだ」
「そっか……うん。いつも一緒だよ」
服に吸い込まれてくぐもった声が落ちる。しばらくは帰った部屋に明がいることはないのに、まだ現実味は湧かなかった。
周りに紛れて抱き合っていた俺たちだったが、ついに体が離れる。
明と目を合わせると、ひと月なんてあっという間だったなと思った。
「座席に座って、景色を見て、俺のことを考えて、部屋に帰る。そして夜には電話で笑い合う。これが今日の成海くんの予定で、同時に俺の予定」
「……電話の後は、お互いのことを考えながら眠るんだろ?」
「うん、そう。いつも通り、成海くんを抱きしめて眠るよ」
さっきまでは胸が押し潰されそうなくらい苦しかったのに、不思議と今は穏やかな気持ちだった。
涙も込み上げてこないし、暗い気分でもない。ただ明とのこれからが楽しみな晴れやかさがある。
「成海くん、またね」
「またな、明」
明も俺と同じなのか、名残惜しみながらも、この別れさえ大切な時間として刻み込んでいる感じがした。
これ以上素顔を晒すのを避けるために、明はサングラスを取り出す。
すぐにかけようとしたが、一瞬動きを止めた。そして口角を上げるとすばやく、触れるだけのキスをする。
離れる寸前、瞼の裏では小さな明が笑っていた。
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