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03
明が俺の部屋にいる。彼のいちファンでもある俺は、不思議な気持ちで飲み物を置いた。
コップの中で茶色い麦茶が揺れる。
「明、これ好きだっただろ。よかったら……」
俺が差し出した箱には饅頭が並んでいる。実家近くにある和菓子店の物だ。
数秒、無言で饅頭を見つめる明に、俺はハッとした。
そうか、明は今はモデルなんだ。口に入れる物はきっと選んでいるだろう。
慌てて饅頭を片付けようとした俺に、明は満面の笑みを向けた。
「あそこのお饅頭だ! 好きだったの覚えていてくれて嬉しい」
「あぁ……でも、無理して食わなくてもいいから」
「無理なんてしてないよ! いただきます」
饅頭をひとつ取った明は、さっそく口に運ぶ。咀嚼しながら、幸せそうに目を細めた。
「久しぶりだけどやっぱり美味しいなぁ……あ、俺も成海くんにお土産持ってきたんだ」
「え? 俺に?」
うん、と頷いた明はトランクを開く。これと、あとこれも、といくつも物を取り出した。
「え、これってどれも高いんじゃ……」
「全部仕事で貰った物なんだ。いつか成海くんに渡したいと思ってしまっておいたから、たくさん持ってきちゃった」
確かに、明が取り出していく物は、彼がモデルをつとめたブランドのアクセサリーや、プロデュースした服などだった。
その中にある物を見つけ、俺は手を伸ばす。
「これ、明がCMに出てた……」
「あのCM、見てくれたの?」
俺が手に取ったのは、有名ブランドの香水だった。手が出せないわけじゃないけど、それなりに高価だから悩んでいた物だ。
明がモデルをつとめるブランドは高価なところが多く、服やアクセサリーは手が出なかった。
手に入るのは俺でも買えるような価格のスキンケア系が主だった。この香水もぎりぎり手が出せるかなと思っていた物だ。
「あぁ、日本でも放送してたし」
「そっか、成海くんに見てもらえて、嬉しい」
まっすぐ俺に満足気な笑みを向けてくる明。その笑顔が眩しくて、なぜか気恥ずかしくなる。
明には俺がファンであることは言っていない。
彼に関する情報をチェックし、毎日SNSを見ていることが知られるのは恥ずかしかったし、引かれたらと思うと怖くて言い出せなかった。
だから明が来る前に、彼が載っている雑誌などは見つからないところにしまっている。
明からはモデル業をそれなりに応援している昔の知人、くらいに見えているはずだ。
「あ、これはあっちの空港で買ったお菓子。なんか美味しいらしいよ」
「お、さんきゅな。母さんが夕飯用意してってくれたから、その後食べよう」
「やった、おばさんの料理久しぶりだから楽しみだなぁ」
嬉しそうに目を細める明は、さっきまでのそっけない人物とは別人だった。長時間のフライトだったし、疲れていたのだろう。
車ではこれからの一ヶ月に不安を抱いたけど、今では明との暮らしが楽しみになっている。
気づけば俺たちは昔のように笑いあっていた。
「成海くん、お風呂ありがとう」
「おー……」
かけられた声に後ろを振り向けば、髪を濡らした明がいた。タオルで髪を拭きながら歩いてくる。
その上半身は何も纏っておらず、俺は反射的に目を伏せた。何故か、見てはいけない気がする。
「成海くん?」
「いや、おまえなんか着ろよ……」
「あ、ごめん、いつものクセで」
昔は細かった腕が、逞しく成長していた。一瞬見えた腹筋は割れていたし、胸も厚みがある。
男の上半身なんて中高でたくさん見てきたというのに、俺は照れで視線をさ迷わせた。
いつものクセ、ということは、いつも風呂上がりはあの格好でいるのだろうか。
アスリートのように割れた腹筋、ハリのある肌に髪から落ちた雫がすべり──。
まだ目に焼き付いている引き締まった体が頭に浮かび、俺は急いで思考をストップさせた。
俺だってひとりの時は同じ格好で部屋にいるし、別に普通だろ、と言い聞かせる。
「はい、シャツ着たよ」
「ん」
シャツを着てタオルを頭に掛けた明が、俺の隣に座る。腕が触れてしまうくらいの近さに、俺はまた戸惑った。
「成海くん、明日は何か予定あるの?」
「レポートに必要な本借りにちょっと大学行ってくるな。明は撮影じゃないのか?」
「うん、俺は休み。……成海くんの大学、俺もついて行ったらダメかな?」
「図書館なら生徒以外も入れるから大丈夫だけど……久しぶりの日本だし、行きたいとことかないのか?」
「成海くんと一緒がいい」
ストレートに一緒にいたいと言われて、俺はまた体温を上げる。端正な顔に見つめられて心音が速くなった。
明に見つめられて平常心でいられる人なんて、きっといない。
「そ、そういえば、明はなんでモデルやってるんだ? 有名大学も目指せるくらいの成績って聞いたけど」
「あー、最初はスカウトされたから始めたけど……続けてるのは成海くんの目に入ればと思って」
「え、俺?」
「目に入れば、俺のこと覚えていてくれるでしょ?」
モデルをやっている理由に、まさか自分がいるなんて思ってもいなくて、驚きで明を見つめる。
一瞬、冗談なんじゃないかと思ったが、明は真剣な顔で俺を見つめ返した。
人気モデルとして活躍している明は、俺のことなんて忘れているかもしれないと思っていた。けれど、あれからずっと、明の中には俺がいたんだ。
どうしようもなく嬉しくて、にやけてしまう顔を隠すために、急いで俯く。
「……ねぇ、成海くん、どうして俺から顔を背けるの?」
「え? いや、そんなことしてないって」
「今だって目を合せてくれないじゃん……久しぶりに会って、幻滅した?」
「いや、それはない! ただ、なんか照れてるだけで……」
「照れ? ……成海くんは俺といると照れるの? どうして?」
「どうしてって言われても……」
明があまりにも格好良いからだろうか。それとも、いまだに俺に懐いてくれているからだろうか。
じりじりと近づいてくる明から距離を置こうと後ろに下がる。しかし広くもない部屋だから、すぐに壁に追い詰められた。
座ったまま明は両腕をのばし、俺を囲うように壁に手をつく。逃げ場を失った俺は明と壁に挟まれ、閉じ込められてしまった。
「と、とりあえず離れないか? 近すぎる気が……」
「近いとダメなの? ねぇ、成海くん、教えて」
もう俺は下がっていないのに、明はさらに体を寄せてきた。体が屈められて、顔が近づく。
息が触れてしまいそうな距離に、俺は何も考えられなくなる。
あ、明の目、なんかさっきまでと違う。真剣で、甘ったるくて、まるでこれは──。
ぼんやりそんなことを思っていると、明の頭からタオルが落ちた。
「っ!」
落ちたタオルに意識を引き戻された俺は、勢いよく立ち上がる。明の腕を跨いで、慌てて風呂へと向かった。
「わかんないから風呂入る!」
「あ、逃げた!」
うるさい足音をたてながら、俺は脱衣所へと逃げ込む。顔も首も熱くて、風呂に入る前にのぼせそうだ。
「……あんな明、知らない」
俺の記憶にある明は、無邪気に柔らかく笑う少年だ。あんな、熱のこもった目は知らない。
いや、モデルの明は、ああいった表情で写真を撮ることがある。でもそれは、俺じゃなくカメラに向けられるもので──。
どくどくとうるさい心音を落ち着かせるように、俺は大きく息を吐き出した。
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