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「紫陽花の美しさって、水滴をまとうことで完成されると思うな」  初めて言葉を交わした日、ぼくは彼女のその意見に同意した。そういうものが、この世にはたくさんある、と答えた。  梅雨の最中で、雨だった。紫陽花が有名なお寺の石段で、彼女とぼくは出会った。傘もなく、ひたすら撮影に没頭するぼくに、彼女は話しかけてきた。いくつかの何気ない問答のあと、ぼくら二人は自然と目があった。 「ねえ、きみ」  彼女は言った。 「わたしの遺影を撮ってくれない?」    自分の存在を、記憶じゃなくて形で残したい。それは、未来を奪われた彼女にとって、ただ一つの願いだった。思い出が時間の質量によって希釈されてしまうことを、彼女は知っていたのかもしれない。   彼女が求める遺影というものは、彼女が生きている姿をありのままに切り取ったものだった。それからぼくは、とにかく事あるごとに彼女と行動を共にすることになる。言うなれば、彼女専属の写真家といったところだった。  初めは戸惑いもあった。シャッターボタンを押し込む度に、少しずつ彼女の人生の幕を下ろしていくような、神妙な感覚に襲われた。 「大袈裟だなぁ」  それを聞いた彼女は微笑(わら)った。まるでぼくに魔法をかけるみたいに。たかが写真なんて思えたらいいのにと、ぼくも思う。  ぼくたちにとって、最初で最期の夏が来た。彼女とぼくは、夏らしいことを思いつく限り実践した。そしてぼくは、その光景すべてを写真に収めた。そのどれもが、確かな煌めきに満ちていた。  例えば、夏草が茂る廃線の上を二人で歩いた日。遥か遠くの入道雲を、意味もなくひたすらに目指した。やがて夜の匂いが鼻先を掠め始めても、彼女は歩みを止めなかった。あたりには常夜灯一つない。闇が深まったら、ぼくらはどこへもいけなくなってしまう。  そろそろ帰ろうと声をかけようとしたタイミングで、そっか、と彼女が呟いた。 「人に与えられた夏の数って、有限だったんだ……。考えたことなかった」    もしぼくが高名な写真家になれたなら、という話を彼女としたことがある。 「わたしの写真だけで個展をひらいてよ」と彼女は言った。夢物語だ。だが、それが実現すれば、多くの人の意識に彼女の存在が根付くかもしれない。つまりは、彼女は蘇る。うまくいけば、永遠になる。彼女が望むとおりに。    しばらく彼女と会えない日々が続いた。  ぼくは、現像した何百枚もの写真を眺めながら、彼女を想った。この数ヶ月の間に、多分ぼくは、誰よりも彼女の素晴らしさを目の当たりにしまった。なんて幸運なんだろうと思う。なんて残酷なんだろうとも。  秋も深まりきった頃、彼女から連絡があった。  月を見たい、と彼女は言った。その日が満月だということは、天気予報で知っていた。ひときわ大きな満月が観測できるという触れ込みに、彼女は胸を躍らせていた。  小高い丘の上にある公園で、ぼくらは待ち合わせた。青白い光に照らされた彼女のやせ細った姿を見て、僕は言いしれない不安感に襲われた。  ぼくは彼女を失う。決定的にだ。狂おしく撹拌(かくはん)された感情は、気がつくと言葉になっていた。ぼくは、彼女に自分の想いを打ち明けていた。 「ありがとう」  うれしい、と彼女は言った。彼女自身の想いを口にすることはなかったが、それでいいと思った。その時、彼女の頬を伝った涙を見て、ぼくの恋は完成された。ああ、そうだ。紫陽花が水滴をまとうように。そういうものが、この世にはたくさんある。 「ねえ」  彼女が手を伸ばす。 「わたし、ここにいるよ。見失わないでね」  ぼくは彼女の手をとる。 「大丈夫。たとえきみが月の裏側に隠れたとしたって、捉えてみせるよ」  ぼくは言った。だってぼくは、君のためだけの写真家なんだから、と。  巨大な満月が、ぼくらの頭上で停滞している。この瞬間が、彼女の存在が、月光と混じり合って、世界に焼き付いてしまえばいいのに。  そう願いながらぼくは、彼女が放つ光を切り取る。
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