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髪を一節掴み、櫛をよく通し、鋏を入れる。
シャキン、と鋭利な金属音と共に「痛っ」と小さな悲鳴が上がった。
分断された髪が、ポトリと床に敷かれた新聞紙の上に落ちる。
「え、ごごゴメンっ! どこか切っちゃった!?」
慌てて祖母の首筋や、耳元の皮膚を確認する。
が、鋏が掠った跡は無い。
祖母は「ああびっくりした」と小さく呟いた。
「何だか、髪に鋏が入った時ね、痛い様な気がしたの」
「えええっ!?」
そんな馬鹿な! 髪に痛覚は無いはずだけど。
「あ、ごめんなさいね、水脈ちゃん。大丈夫よ、多分気のせいだから」
「そ、そう?」
続ける様に促されて、私はおずおずと再び鋏を手にした。
もう一節切るが、今度は彼女に変化はない様子で。
どうやら本当に気のせいだったみたいだ。
私の指はスムーズに、いつもの調子を取り戻していく。
「……ねぇ、お婆ちゃん」
鏡の中のどんどん髪が減っていく祖母と、手元とを交互に確認しながら、前々から思っていた疑問を口にした。
「どうして、20年間一度も髪を切らなかったの?」
祖母は和服が好きな人だ。いくら髪を結い上げるにしても、そんなに髪を伸ばす必要は無かった筈だ。平安時代じゃあるまいし。
暫しの沈黙の後、祖母は軽く溜息をついた。
「水脈ちゃんはお爺ちゃんの事、覚えてないわよね?」
「うん……まだ2才くらいだったし」
私が物心付く前に、祖父は他界した。
だから私は大昔の写真と、家族の思い出話の中でしか祖父を知らない。
「お婆ちゃんはね、とっても未練ったらしいの。お爺ちゃんは私の髪が好きでね……だから切りたくなかったの」
思わず作業中の手が止まった。
鏡の中、祖母の視線はどこか遠くで焦点を結んでいる。
「失恋すると髪を切るっていうでしょ? 多分そういう人は、失恋した自分を吹っ切る為に髪を切るんじゃないかってお婆ちゃんは思うの」
「身軽になるって事?」
「そうね……。あのね水脈ちゃん、人間は忘れる生き物なの。感覚も触覚も温度もたまに感情もね。水脈ちゃん初恋の人の顔って覚えてる?」
「初恋の人?」
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