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駆け出していくしぃちゃんの背中を追いかけたのは、反射だった。
動けなかった。三崎って案外おかしな奴だな、そう言って笑ったあいつの顔が目の前によぎる。
動け、とすくむ足を強くたたく。一歩。また一歩。ゆっくり前に踏み出して、おれはしぃちゃんの背中を探した。直接、ちゃんと聞きたかった。それがどういう結果を招くのだとしても。
大声でわめいて暴れたかった。怖かった。おれは、生まれて初めてできた大事な友人を、失ってしまうかもしれない。だけど、しぃちゃんを好きになるっていうのは、初めからそういうことだったのに。
――帰りたい。
ここへ来てはじめて、心から願った。こんなところ、もういやだ。一刻も早く抜け出して、おれたちの、まともな正しい世界に帰りたい。いつのまにかおれの足は焦りにまかせてスピードを速めていた。ふっと、視界が揺らいだ。同時に足元を見失う。
次の瞬間、目の前に広がっていたのは、芝生でも樹木でもなかった。
赤い炎と叫喚に包まれた、惨劇だった。
後頭部がずきずきと痛んで、おれは【身体を起こした】。大丈夫かと、血相を変えた見知らぬおじさんがおれをのぞきこんでいる。右手に握りしめられているのは、携帯電話。おじさんの肩越しに見える、真っ赤な炎。
――これは、なんだ?
バスとバスが、横転している。巻き込まれた乗用車も、何台かクラッシュしている。ガソリンに引火して、火の手があがっていた。遠巻きに誰かが叫んでいる。遠くから聞こえる、サイレンの音。
目眩がした。【息がうまく吸えない】。咽喉もとがひくつき、痙攣を起こしそうになる。
どういうことだ。どうしておれは、息をしている。
――違う。ここじゃない。
とっさに、目の前の情景を否定する。この場にいることを、全身で拒否する。
だめだ。おれはここにいたらだめだ。戻らなくちゃ。奏平としぃちゃんのいた、不気味で奇妙なあの場所へ。今すぐに!
ぱぁん、と耳元で音がした、気がした。
気づけば、おれは芝生の上に倒れていた。とっさに胸元に手をやる。心臓の音は、しない。ゆるゆると体の力が抜け、安堵が全身をかけめぐる。
「……三崎」
背後から声がした。怯えを残したままふりむくと、そこにはやけに静かな、薄暗く表情を翳らせた奏平がいた。顔はまっしろで、そしてどこか、遠い目をしておれを見下ろしている。
「お前、いま、消えたな」
「……え?」
「戻ったんだろ、一瞬。あっちに」
聞いたことのないほど、無機質に響く。いったいどうしちゃったんだ。問いただす声もうまく出ない。
「お前、どこにいた?」
「どこって、ずっとこのあたりに」
「違うよ。いまの一瞬だ。戻ってただろ、ここじゃないほんとうの世界に」
ひしゃげたバスの車体。そのなかに見えた人の姿。悲鳴に、炎。目の前に広がっていた、否定しようのない惨状。
一気に光景が目の前に戻ってくる。あれが、ほんとうの世界? おれたちのいた、日常?
「なにが、見えた?」
奏平の眼差しはやけに静かで、それがよけいに、不安をつのらせる。
「……バス。事故があったみたいだった」
「そばにいたのか?」
「ほとんど目の前だった、と思う。でもなんか、おれ、倒れていたみたいで」
「……そうか」
奏平は、人差し指でこめかみをかいた。それは、迷っているときの奏平のくせだった。なにか重大なことを話そうか話すまいか、悩んでいるときの。
「なんだよ。……言えよ。その事故がなんの関係があるんだよ」
「本当に覚えてないのか?」
「だから、なにを!」
「お前は知ってるはずだ。だって全部見てたんだから。お前は……死んでないんだから」
握り締められた携帯電話。
おれはどうして、鞄じゃなくて手に持っていたんだろう。簡単だ。電話をしていたからだ。
――ついたよ、奏平。どこにいる?
――バスん中。もうつくよ。あ、お前見えた。すぐ行くからそこで待ってろ。
耳元で聞こえてきた、奏平の声はやけに不機嫌だった。しぃちゃんと喧嘩でもしたんだろうかと、少し不安になった。
あれは、いつだ。そのバスは、どれだ。
「……そう、へい」
「思い出したか?」
「違う、バスだろ? あれじゃないだろ、なあ!」
くすくすくす、と。
どこからか子供のささめくような笑い声が聞こえた。引き戻される。
わかっていた、ことじゃないか。ここにいることこそが、その現実の証明だと。
「…………どうして、おれだけ」
「え?」
「どうしておれだけ、今、戻ることができたんだ?」
芝生をぎゅううと握る。何かにすがっていないと耐えられそうになかった。
「三崎さ、お前、帰りたいって思ったんだろ。元の場所に帰りたいって。だからだよ」
「でもそんなの、今だけじゃないだろ。おれはずっと帰りたかった」
「今までは一人じゃなかったから。あと、……俺が、帰ってほしいって思ったからだな」
奏平は、少しだけ、痛みをこらえるように口元をゆがめた。
「俺がお前に帰ってほしいと願って、お前も帰りたいって願えば、あっというまに、今すぐにでも戻れるんだ。お前をここに引っ張りこんだのはたぶん、……俺だから」
釈然としない様子のおれに、奏平はおかしそうに苦笑した。その表情がなんだか、あの敬二という子供に似ていて、びくりとする。
声が、出ない。全身が石になってしまったみたいに、動かない。
「なん、で、お前が」
とぎれとぎれにこぼれる声に、奏平が肩をすくめる。わかってんだろ、というように。
「俺が、死んでるからだよ」
――世界が。
終わってしまった瞬間って、こんなだろうか。
淡泊に告げる奏平の声を耳にしながら、おれはうすぼんやりと、そんなことを思った。
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