いつかネバーランドで

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 汐織は壁画の前にいた。  名前を呼ぶと、へたりこんでいる、小さな背中が怯えるようにかすかに震えた。  振り向いたその顔は、青ざめているというよりも土気色で、ここにい続けることが汐織にどんな影響を与えているのか、問うまでもない。  これから、汐織にザクロを食べさせる。  そうすればすべてが終わる。簡単だ。たったそれだけで汐織はそばにいるんだ。俺のそばに、ずっと。  二人で遊ぶ。一緒に、子供に還っていく。難しいことなんてなにも考えなくてよかったあの頃に。  それはなんて幸せで……重苦しい未来だろう。いや、未来なんかじゃない。先に進む道なんて、どこにもない。 〈死ぬということは、すばらしく大きな冒険だろうな〉  それはフック船長との戦いのあと、ウェンディたちを助けて一人岩場に残されたピーター・パンが、美しくすきとおった月夜を眺めて覚悟を決めたときの台詞だ。  俺にはむりだった。そんなふうに潔くなんてなれない。死ぬのはいやだ。一人はいやだ。俺を残して戻ることのできる三崎が、汐織が、恨めしい。そんなのは不公平だと、怒りがたぎる。  けれど手にしていたザクロを背中に隠そうとして、汐織が同じものを持っているのに気づいた。とたんに、自分の口元がひきつるのがわかる。 「汐織、お前それ」 「初めて喧嘩した時のこと、覚えてる?」  気色ばんだ俺を制するように、わざとらしいほど声高だった。汐織の視線は、まっすぐ俺に注がれている。そこからはなんの感情も読みとれない。 「……覚えてるよ」  立ち上がろうとした汐織の手をとり、俺は引っ張り上げた。 「お前が約束を破ったからだろ」 「違うよ。奏平だよ」 「いいや、お前だ。運動会、ちゃんと出るって言ったのに、仮病なんてつかうから」  ぐっと、汐織はだまりこむ。  あれは小学校の四年生のとき。あいかわらず女子とうまくやれていなかった汐織は、リレーの練習でちゃんとバトンを渡してもらえなかった。わざと受け取りにくいタイミングや位置でさしだすのに、失敗すると全部、汐織のせいにしてきたのだ。汐織は毎日めそめそ泣いていたけど、負けてほしくなかった。だから、運動会当日も休まないと約束させた。 「……遊園地、楽しみだったのに」 「だってそれは、運動会を乗り切ったらって話だったじゃん」 「そうだけど」 「お前、甘やかすととことん甘えるからな。そこは譲れなかったんだよ」  それからしばらく、口もきかない日が続いた。三日にあげず家を行き来して遊んでいたのに、目すらあわさず、お互いを徹底的に避けた。出会ってから初めての喧嘩で、意地になっていたのかもしれない。  だけどさすがに、一緒に見ていたアニメを二回連続で一人きりで見ると、不安になってきた。最後の数日間は、俺も汐織も、仲直りするタイミングをさがしていた。  そんなある日、赤いランドセルをしょってとぼとぼ歩いている汐織と、帰り道に一緒になった。俺や俺の友達と遊ぶようになって浮かべるようになったえくぼはすっかりなりをひそめ、下ばかり向いていた。だからわざと、信号を越えた一本道で、追いついた。 「二番目の星を右に曲がって、そこからまっすぐ」  え、と目を丸くしてふりむいた汐織の顔は、まだちゃんと見られなかったけど、俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。 「二番目の星を右だ。ダッシュで負けたほうが謝る。いいな?」 「え? ……えっ?」 「行くぞ!」  ずるい、とわかっていたけど俺はスタートダッシュをかけて全力疾走した。星、というのは、通学路に目印としておいてある星形の標識のこと。目についた二番目の星がある角で、右に曲がる。そのまま、とにかく走った。息が切れるまで、力いっぱい。  そぉへぇ、と泣き出しそうな声が耳に届いて、俺はようやく足を止めた。振り向くと、たどたどしく走って追いかけてくる汐織の姿が目に入った。遅い。まったくもって、トロい。だけど、止まろうとしない。必死で俺を、追いかけてくる。 「まってぇ」  ぐすん、と鼻をすすりながら、べそべそと頬を濡らしながら、それでも走る。  俺は苦笑して、汐織を迎えにUターンした。ふええええん、と泣きじゃくりながら、汐織はやってきた俺の服のすそをつかんだ。 「ごめんなさぁいぃぃ」  顔を真っ赤にして、汐織は声をはりあげた。ま、許してやるよ。そんなことを言って、ぽんぽんと汐織の頭をたたいた。それが仲直りの合図だった。 「奏平はいつも、わたしを助けてくれた。……だから今度は、わたしが奏平を助ける番」 「……なに?」 「今、これを食べようと思ってたところなの。奏平、タイミングよすぎるよ」  服のすそから手を離し、汐織は両手で大事そうに実を抱えてにっこり、笑った。ここ最近では見たことないくらい、どこにもむりのないように見える、朗らかな笑顔だった。 「なに……言ってるんだ」  思わず、身をひいていた。汐織を遠ざけ、うしろに一歩、足をふみだす。だけど汐織はなんでもないことのように、実を口に近づけた。  無意識に俺はその実を、叩き落していた。汐織が目をまんまるにして、心底ふしぎそうに、地面に転がった果実を目で追う。そして、どうして、とこぼした。 「どうして、は、こっちの台詞だ。いったいなんのつもりだよ」 「だって……これを食べなきゃ、こっち側にはなれないんでしょう?」 「だから、それがどういうつもりだって聞いてんだよ!」  興奮しすぎて、声がひっくりかえる。どういうつもりは、俺のほうだ。それは今まさに、俺がやろうとしていたことじゃないか。  汐織は、黙ってかがみこみ、とびだして散らばった果実を拾いあげはじめた。その手をたたいてやめさせて、ザクロを踏みつぶす。 「なにするのよ、奏平」 「お前、自分が何をしようとしてるのか、わかってんのか」 「……わかってるよ」 「わかってねえよ! 死ぬんだぞ。それ食ったら、二度とあっちには戻れねえんだぞ! それがどういうことなのか、お前本当に」 「だから、わかってるってば!」  悲鳴をあげて、汐織は俺の言葉をさえぎった。  ……懐かしい、顔だった。初めて喧嘩をしたとき、ふくれっつらになりながらにらみあったあと。俺に背を向ける寸前に見せた、あの、表情。 「どうしてそんなこと言うの。全部、わかってるよ。わかってて、食べるって言ってるのに。どうして喜んでくれないの!」  どん、と体ごとぶつかられて、俺はしりもちをついた。はずみで、隠していたザクロが転がり落ちる。俺の胸元をぎゅっとつかんで、顔をおしつけ、汐織は震えていた。 「いやだからね。奏平が死んじゃうなんて、もう二度と会えないなんて、絶対にいや。だったらわたしもここにいる。奏平のそばに、ずっとずっと、いるんだから!」 「……俺以外の誰にも、会えなくなるんだぞ。おじさんにも、おばさんにも。せっかく受かった大学にだって、行けなくなる」  こくん、と汐織は無言で首を縦に振る。 「……三崎にだって」  一瞬の、間があった。だけどやっぱり、汐織は小さく頭を揺らした。 「いい。奏平がいれば、それでいい」  こらえきれず、俺は汐織を抱きしめた。つぶれてしまうんじゃないかと思うくらい、強く。華奢な肩が、腕が、折れてしまいそうなくらい。  なぜだろう。その言葉が、その言葉だけがずっと欲しかったはずなのに。  そっと肩をつかんで体を離すと、汐織の前髪をかきあげた。真っ白な広いおでこを優しく撫でる。輪郭を確かめるように、そのまま汐織の頬に手を滑らせる。ぬくもりは、当然のようになかった。ふっくらとした頬を親指で押す。  鼻先同士が触れた。それ以上近づくのは、怖かった。ずっと禁じてきた、距離だ。  汐織は身じろぎもせず、瞼をおろしてかまえている。ぎこちない動きで、汐織の首のうしろに手をやる。そしてそのまま――。  俺は、止まった。そっと顔を離し、汐織が目を開けるより先に、もう一度、強く抱きしめる。さっきよりも、強く。  涙が、こぼれていた。ぼろぼろと、大粒の涙が俺の頬を伝う。ちくしょう。あんな実なんか食べたばっかりに、止めようにもどうにもならない。 「奏平……?」 「もういいよ。……もう、いいんだ」  唇を一文字にしてきつく結んで。目をぎゅうとつぶって。  それは泣き出す一歩手前、泣くのを必死でこらえているときの汐織の顔だ。そんな顔を、していた。俺が、させてしまった。  呆然と、信じられないという表情の汐織に、むりやりにでも微笑んでみせる。 「お前はただ、死んだってことにとらわれて、混乱してるだけだよ。死んだりしなければ、俺を選ぼうとはしなかったはずだ。違うか?」 「そんなことっ……」  汐織の瞳は、いまや怒りに燃えていた。 「どうしてよ。どうしてそんなこと言うの。奏平、ひどいよ。言ったじゃない。わたし、奏平がいなくちゃなにも」 「……しぃ」  静かに。  ただ、静かに、穏やかに、呼ぶ。 「……俺はお前が好きだった。大好きだったよ」  滲み出そうな涙をこらえ、俺は口の端をあげた。  行ってくれ。俺の決心が鈍る前に。  一緒にいられないならせめて、……お前の〝ピーター・パン〟のままで。あいつは、とても勇敢なやつだろう? 誰の心にもすべりこんで浮き立たせる、そんな、気持ちのいいやつだろう?  下唇を切りそうなくらいに噛んで、眉を寄せ、苦しそうな表情を見せたあと、汐織はぐにゅっと顔を歪ませた。眉間に縦皺が何本も入って、眉が情けないくらいさがっているのに、口の右端がわずかにあがる。だけど左はさがって、顎に梅干みたいな皺が寄った。  笑おうとしてるんだと、やがてわかった。 「……好きな人が、できたの」  歯を食いしばるようにして、汐織が言う。 「奏平に、一番に、聞いてほしかった」 「……うん」 「でも言えなかったよ。言ったら、奏平が泣くから」  それ以上は、俺が耐えられなかった。汐織をここから、帰したくなくなる。  汐織の手をとって、立ち上がる。離せば今にも崩れ落ちそうだ。だけどあえて、肩をとん、と押してやる。 「――二番目の星を右だ」  音を立てそうなくらい盛大に、汐織の顔が歪む。  ――長いつきあいだもんな、俺がどれだけ頑固かってことくらい、お前わかってるよな。 「二番目の星を、右だ。汐織」 「そうへ」 「行け! 走れよ!」  汐織はぐっと、うつむいた。そして、反動をつけたように突然、俺に飛びついた。ぎゅううう、と、首のうしろにまわされる腕に力がこもる。抱きしめてしまわないように必死で、耐えた。泣き出さないように、必死で、こらえた。  それが、最後だった。次の瞬間、すべての感触は離れ、気づけば汐織の背中が遠ざかっていく姿だけが視界にあった。  汐織は、――行ってしまった。
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