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水か何かないか探してくる、と汐織はふらりと歩き出した。一人になりたいのだろうとわかったから、俺も三崎もあえて追うようなことはしない。
残されたギターを手に取って、俺は芝生の上に胡坐をかいた。
「……俺さ、我ながら信じらんねえなって思ったんだけど、敬二の名前、忘れてたんだよな」
死んだと聞いたときは、それなりに悲しかった。
落ち着いたら今度は別の曲も教えてやるって言ったのに、受験勉強やら塾やらで俺も忙しくなって、あれからけっきょく、一度も会えていなかった。悪いなと思いながらメールをするのも後回しになって、そうしているうちに敬二は死んでしまった。
風呂につかりながら、まだ十二歳だっていうのに死んじゃったあいつのことを思ったら、少しだけ涙が出た。もう会えないんだなと思ったら、悲しいのか申し訳ないのかよくわかんないけど、なんとなく、泣けた。泣きながら、俺どうして泣いてんだろうと、不思議になった。そんなあいつの名前を、俺は忘れてしまった。それどころか俺は、あいつが死んでいる、ということさえ忘れていた。
「あいつが死んで、何ヵ月か経ったころかな……ギター弾きながら、なんの気はなしに思い出したんだ。あ、そっか、あいつ死んでるんだ、って。もうあいつはどこにもいなくて、あいつの時間はどこにも進まないんだなって思ったらすげえ、へんな気分だった。そんで……気づいたんだ、あいつの名前、忘れてることに」
顔は思い出せた。なんとなくだけど。写真だって残ってたし。
だけど、名前は。どうがんばってしぼりだそうとしても、出てこなかった。メールを見ればわかることだったけど、でも、思い出せないなんてそんなのうそだろって、次の日までうなって考えた。ああそうだ敬二だ、ってわかったときはほっとした。ほっとしたとたん、たまらない罪悪感が襲ってきた。
似たようなことはそこらじゅうにある。借りたマンガを返せないまま連絡の取れなくなった奴とか、喧嘩したきりもう会うこともないだろう奴とか。そんなの、いっぱいいっぱい、いる。二度と会えないって意味では、死んでしまったのと変わりがないはずなのに、そいつがもうこの世にいないってわかっただけで、忘れてしまうことややり残したことが、熱を帯びて罪悪感に変わる。だから、ほんのわずかに残された、後ろめたさの欠片にしがみつく。そうすることでしか、覚えていられないから。
「……おれが中一のとき、じいさんが死んでさ」
おもむろに三崎が切り出して、俺は顔をあげた。
「おれにすごく期待してたから、中学受験に失敗したの、めちゃくちゃ落ち込んだんだ。お前にはがっかりだ、とか言われて、繊細なおれはもうずたぼろよ。絶対に挽回してやる! って思った矢先に、でも、ころっと死んじゃった。おれのせいか? とか、ちょっと思うよね」
初めて聞く話だった。なにを言っていいのかわからなくて、黙って耳を傾ける。
「で、まあ、孝行者のおれとしては、高校受験で挽回してせめてばあさんや両親は喜ばせてやろうと思ったわけ。けっきょく、期待からは大いに外れた高校に行っちゃったわけだけど」
「あんときは……大騒ぎだったよな」
三崎の家族だけじゃなかった。中学の担任も、塾の先生も、それから俺と汐織もだ。学年トップの三崎が俺たちと同じ、二つもランク下の高校に行こうとしていたのだ。けれどどれだけ周囲に説得されても三崎は揺るがなかった。
「でもさ、そんなもんなんだよ、奏平。今度は絶対に後悔したくない、ばあさんを悲しませたくない、じいさんに見せてやれなかった姿をせめてばあさんが死ぬ前に見せてやりたい、そう思ってもおれは、ばあさんを世界の中心にして生きていくことなんてできないんだ。だけどそれが悪いことなわけ、ない」
抑揚もなく淡々と、どこか突き放したように三崎は続ける。
「おれね、後悔なんてけっきょく、どれも自己満足だと思う。でも、自己満足でなにが悪い? だっておれたちは、なにがあったって自分を納得させて、自分の道を歩いていかなくちゃいけない。自己満足じゃないもののほうが、少ないんだよ」
「そう……かな」
「そうだよ。それに、忘れてたことにショックを受けたのは、奏平が、忘れたくないって思ってた証拠だろ。それで十分じゃないのかな」
なんてことないように言ってのけた三崎を、俺はまじまじと見つめた。
「三崎。……お前、やっぱすげえわ」
「なんだよ。おちょくってんの?」
「いや、まじで。……そんなふうに俺は、論理的に考えられないし、言葉にもできないから」
珍しく素直な俺に戸惑ったのか、三崎は居心地悪そうに体を揺らす。
「……な、ずっと不思議だったんだけど。なんで奏平はおれを、家に誘ってくれたの? しぃちゃん、言ってたよ、奏平は昔からあんまり人を家に呼びたがらなかったって。たぶん親父さんに遠慮してるんだろうけど、って」
「そういうわけじゃねえけど……お前はなあ、だってほんとに、おかしかったから」
中間や期末ならともかく、授業中のリスニング試験一つであんなにマジになるなんて俺には考えられなかった。そのあとも傑作だった。今思い出しても腹がよじれる。初めて汐織に会った日の三崎は、汐織を前にして、「はじめまして、ぼく、三崎佑也です。倉田くんとは同じクラスです。よろしく」なんて、見たこともない爽やかな笑顔でのたまったのだ。あれから四年、その擬態っぷりは一度として綻びを見せない。なにがぼくだよ、と隣で聞いていてうすら寒くなることがしばしばだ。
「それに俺、お前のことけっこう羨ましかったんだよ」
「……なんで。おれ、クラスで孤立してたし、いいとこなんてなんもなかったろ」
「まあ、それはそうだけど」
即答すると、三崎は見るからにむっとした。自分から言っといて、と俺は小さく笑う。
「わっかりやすいんだもん、お前。私立落ちたのは噂で知ってたけど、だからってあんなあからさまにふてくされるか? 俺は、昔からなんていうか、あきらめる癖がついてたからさ。何かが駄目だったときにすぐ、しかたねぇなあって思っちゃうんだよな。だから、あんなふうに堂々と不満たらたらなお前がけっこう、眩しかった」
褒められてる気がしない、と三崎は鼻の周りに皺を寄せる。けれどふと真面目な顔に戻って、俺を凝視した。
「……しぃちゃんのこともそうやって、諦めようとしたのか?」
ぴりり、と空気がこわばる。俺はあえて目をそらさずに、三崎を見返した。
「なあ、奏平。どうして、仲川さんとつきあったりしたんだ。まさか、おれに遠慮してるつもりじゃないよな? 譲ろうとか、そんなこと考えてるわけじゃないだろ。だとしたら――」
「違う。三崎、お前はなにもわかってない」
食いしばった歯の隙間から、吐き捨てるような声が、太く響いた。
「だから、なにをだよ」
「……なんか少し、薄暗くなってないか?」
「ごまかすなよ、奏平」
「ごまかしてねえよ。さっきより、少し暗い気がする。……おい! 汐織! 戻ってこい!」
俺は、遠くにいる汐織の背中に大声で呼びかけた。それ以上、その話はしたくなかった。
汐織が戻ってくるころには、あたりはさっきよりもさらに薄暗くなっていた。
「これ以上動くのは危ないかもな。暗くなったところで、電気がつくとも思えないし」
「だとしたら、夜をしのぐ場所、考えないと」
三崎が同調するけれど、俺は、いまだにその顔を直視できないでいた。少しでも三崎のあほづらを目にしたら、殴ってしまいそうな気がした。
――おれに遠慮してるつもりじゃないよな?
三崎の言葉を反芻する。遠慮? 俺が、三崎に? いったい、なにをだ。冗談じゃない。ふざけるな。三崎、一体いつからお前は、俺と同じ土俵に立ってるつもりなんだ。
「ねえ、あっちの樹の奥に、小屋を見つけたの。元の世界では見たことなかったから、怖くて近づけなかったけど……夜明かしするにはいいかもしれない」
「……行くか」
ぞっとするくらい冷たい声が、俺の口から零れた。なんだかひどく疲れてしまった。
池にそって歩き、奥まで進んだところで汐織が声をあげた。もうだいぶ、薄闇が広がっていた。あともう数分もしないうちに、すっかり光は消えてしまうだろう。
「ほらあそこ、見える?」
乱立する樹の隙間に、確かに小さな小屋がいくつか並んでいた。灯りもないし、人の気配もない。だけどまるで集落のように、少なくとも四つ、五つは並んでいる。
俺が先導したまま、恐る恐る、歩を進める。一番手前にあったロッジのドアノブに手をかけると、最初からちゃんと閉まっていなかったのか、キィ、と音を立てて簡単にドアが開いた。
中には人がいた。
しかも、どう見ても彼らは子供ではなかった。暗くてよく見えないけれど、男が二人に女が一人。
「あ、あの」
間がもたずに絞り出した声は、でも、怯えていることの証明のようでかっこがつかなかった。
「あの。すみません、ちょっと、聞きたいことがあるんですけど」
男の一人が、興味を失ったようにごろりと横になった。それにつられるように、もう一人の男も、抱えた膝に額を載せてしまう。けれど女の人だけが、俺たちをじっと見つめたままだった。おばさんというよりはおばあさんに近いその人を見て、汐織がびくっと両肩を震わせる。
「……坂崎の、おばあちゃん」
「え?」
言われてその人をまじまじ見ると、確かにそれは同じ町内会のばあさんだった。……二週間くらい前、心筋梗塞で亡くなったはずの。俺も汐織も、母さんたちに連れられてお通夜に出たから間違いない。二人目の死者に、俺と汐織はそろって硬直する。
「名前、呼んだらあかんよ」
ばあさんは、やれやれと言うように首を振った。
「新入りかい? そんなところにつったってないで、入っといで」
ばあさんに手招きされ、俺たちはおそるおそる足を踏み入れる。そのとき、つま先に何かが当たって拾い上げると、それは見覚えのある赤く丸い果実だった。ふんわり、甘い匂いが漂う。
「なにしてるんだ、奏平」
「あ、いや」
とっさに俺は、三崎からそれを隠していた。
咽喉の渇きを思い出す。少しずつ蝕むように増している、狂おしいまでの渇き。これを口にすれば満たされるだろうか。俺はそっと、果実をパーカーのポケットに忍ばせた。
部屋の隅にちょこんと正座するばあさんにならって、俺たちも足を折る。よくよく見れば、ばあさんは俺たちが知っているのとずいぶん印象が違っていた。皺も少ないしなにより……曲がっていたはずの背筋がのびている。
「おばあちゃん……わたしのこと、わかる?」
「いんや。もうだいぶ忘れてしまったでね。……あんたたち、いつ来た。かわいそうに、まだそんなに若いのに」
俺たちが死んでいると、疑っていない口調だった。打ちのめされそうになるけれど、迷い子だと言っていた敬二の言葉を思い出して踏みとどまる。代わりに、敬二には聞けなかったことを口にする。
「……ここは、どういう場所なんですか」
「さてねえ。あたしにも、はっきりしたことはわからん。ただ、死んだ人らはみんなここに集められる。夜がくると眠って、一つずつ記憶を失う。そうして最後に自分の名前を忘れるまで、ここにいる。そういう場所だっていうことくらいかね」
「……夜がくるたびに、忘れていくんですか」
「そう。そして体が少しずつ、子供に還る」
「子供に……還る?」
口を挟んだのは三崎だった。ばあさんは、静かに頷く。
「あたしは、あんたたちが知るより若いだろう?」
「……はい」
「そこにいる二人も、あたしがここに来たころはもっとじいさんだった。子供たちに会ったろう。あの子たちも、そうして小さくなっていった人たちだ」
「でもじゃあ、敬二はどうして」
思わず呟くと、ばあさんは再び首を傾げた。
「けいじ?」
「はい、あ、あの……ピーターって呼ばれてる、やつなんですけど」
ああ、と頷いてばあさんは、そこで初めて憐れむような色を瞳に乗せた。
「あの子みたいに、なかなか忘れられない子はピーターって呼ばれるようになる。まだ小さいのに、死んだんだろうねえ。そういう子は、簡単には手放せないんだよ。未練が大きすぎて、時間が人の何倍もかかっちまうからね」
言葉が、つまる。
別れ際、あんたと同じようにおれも母さん守るよ、そう言っていた敬二の大人ぶった顔が、浮かんで。
「……忘れないと、いけないんですか」
膝の上で拳をきつく握ったまま、汐織が硬い声を出す。その問いの意図をはかりかねるように、ばあさんは再び首を傾げる。
「だってそんなの……淋しいです」
「おもしろいこと、言うなぁ」
ふ、とばあさんは口元をゆがめて笑った。お世辞にもそれは好意的なものとはいえず、たじろいだように汐織が一瞬、身を引く。
「あたしらは死んでる。ここに〝いる〟みたいに見えるけど、でも実際はどこにもいない。そのうち消えていくだけの存在だ。だとしたら、大切な記憶を忘れずにいることのほうが、よっぽど淋しいよ。そう思わないかい?」
汐織は目を見開いたまま、なにも言わずにばあさんを凝視していた。
「それにね、あまり長いあいだここにいると、出られなくなるんよ。気持ちだけが残って、なんていうかねえ、生きてもいないし、死んでもいない状態になるんさ。幽霊ってのはそういうことなんだと、ここへきて思ったけどね」
ばあさんの無情な声が、小屋に響く。
「だから、どれだけ時間がかかっても忘れなきゃいけないんだ。大切な人のことも、自分が誰なのかも全部。そしたらようやく、あたしらは次に行ける」
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