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新婚旅行
ウチの会社は盆休み自体は二日しか設けていないが、夏休みは夏季好きな日に五日取れることになっている。仕事の調整が出来るなら連休にしてもいいし、週中等に割り振ってもいい。
俺の休みは葵と合わせられるだろうかと予定を聞いてみたのは同窓会の少し前のこと。
「ウチは固定のお盆休みはないのよ。でも好きな日に一週間分休みを取れるわ。休み合わせて何かする?」
「葵個人はいつ頃なら休み取りやすい?」
「もう忙しいピークも過ぎたし尊に合わせて調整するわよ。あ、でも九月に入ったら就任パーティーからまた忙しくなるだろうし八月中がいいかしら」
「だったら……」
盆休みの後ろに夏休みを繋げる事にした俺は、葵にも休みを合わせてもらい宿を取っておいたのだった。
「素敵なお部屋ね」
「マジでたまたま取れたんだよ」
繁忙期の観光地でいい部屋はもう空きがないかと半分諦めつつ探したのだが、料金の高さからか一部屋良いところを見つけて予約しておいた。
和モダンな広い和洋室は最上階角部屋で、部屋の二方面から景色を楽しめる。遮るものがなく海が眺望出来て、その部屋で豪華な食事や温泉を楽しめるという話を聞いて是非葵を連れてきたいと思ったのだ。
「こちら当館からのお祝いでございます」
「シャンパン……!」
「この度はハネムーンということで、誠におめでとうございます。素敵な旅になりますよう我々もお手伝いさせていただきますね」
仲居の言葉に葵が驚いた様子でこちらを見る。
「それでは、ご夕食までごゆっくりお寛ぎ下さいませ」
部屋に二人きりになり、ハンドバッグを置いた葵が探索を始めた。
「ねぇ、お部屋に露天風呂まであるわ! ここのブランドがアメニティライン出すの初めて見た。シートマスクもヘアマスクも置いてある……急ごしらえの旅行でよくこんな素敵なお部屋取れたわね」
「新婚旅行って感じするだろ?」
「えぇ。新婚旅行のつもりだったなんて聞いてなくて驚いたけれど――尊は意外とマメね」
葵はどうせ新婚旅行も不要だと切り捨てただろうから勝手に予定を組んだ。本当はヨーロッパ辺りに二週間くらい滞在出来れば良かったんだろうが、流石にそこまでの休暇は合わせて取れないと思い国内を探し、飛行機はチケットが取れず近場になってしまった。それでもこんなに声が弾む葵を見るのは初めてで来て良かったと思う。
「夕食は18時から部屋食だ。それまでどうする?」
「そうね、売店でも覗いてこようかしら?」
「一緒に行くか。秘書達に土産でも選ぶとしよう」
「あ、浴衣……」
財布を取ろうとした葵が置いてある浴衣を手に取り広げた。
「着るか?」
俺としても早く浴衣姿を見たいものだ。頷いた葵は浴衣を持って脱衣所に入っていったから、俺はその場でさっと着替えた。
一階にある土産屋はなかなか広くて見応えがある。定番のお菓子からご当地グッズ、旅館限定の小物なんかもあり、葵は楽しそうに選んでいる。もしかしたら仕事のことも考えているかもしれないが、それでも真剣に土産を吟味する姿は微笑ましい。
浴衣姿を見られただけでもこの旅行に来て良かったと思えるくらいなのにと、俺はひっそりと幸せをかみしめていた。
少し離れてそれぞれ見ていると、後から入ってきた大学生くらいの若い男数人が葵を見つけて声を掛けた。
「ねぇ、オネーサン一人? お友達と来てるのかな?」
「え……っと」
「何人? こっち男四人なんだけど良ければ……」
「ウチの妻がどうかした?」
俺が近付くとあからさまに落胆した様子で離れていく男達。去り際に小さく「指輪してなかったじゃん」と呟いた。
「…………」
「ありがとう、助かったわ」
「ん……」
「どうかした?」
指輪はそんなに皆気にするものなのだろうか。仕事柄していない夫婦だって多そうなものだがどうなのだろう。しかし結婚していなくても左手の薬指にペアリングをするカップルもいるというし、パートナーがいるという印としてはわかりやすいのかもしれない。
「いや、葵はモテるなって」
「別にあんなのモテる内に入らないわよ。私のこと何も知らないんだもの、誰でもいいのよ」
そんなことはどうでもいいと言いたげに手に取っていた箱を掲げる葵。
「お土産、小早川にはこれにしようかなって。七瀬さんには決めた?」
「いやー、あんまりこういうの選ぶの得意じゃなくて」
「そうなの? 七瀬さんの好きなものとかわかる?」
「……どうなんだろ? 日本酒は好きなんじゃないかな」
だったら向こうに地酒のコーナーがあったと俺の手を引く葵。その動作はとても自然で、普通にカップルのようだ。ぎゅっと握り返してみると、一瞬こちらを見やりふわっと微笑む。気の強い女だが闇雲に反発するわけではなく、自分への敵意を感じた場合に牙をむくのだろう。こうして俺と関わろうと向き合ってはいるようだ。
「ん? そんなにじっと見てどうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「別に……浴衣も似合うなぁと思ってな」
「ふふ、何よ気持ち悪いわね。新婚旅行だからって無理に甘くしなくてもいいのよ」
葵はひとしきり笑ってからボソッと呟いた。
「尊も浴衣似合うじゃない」
夕食は海のそばだけあり海鮮がメインの豪華な会席料理で、部屋食ながら時間を見て次々と運ばれてくるスタイルだった。記念品として宿からプレゼントされたシャンパンを飲みながらゆっくりと楽しんだ。
食事を済ませた俺らは、暫し満たされた腹を落ち着かせるべく畳の上に横になっていた。部屋の洋室部が寝室となっておりキングサイズ程ありそうな広いベッドが一台あるのだが、食事を摂った和室もかなりの広さで座卓を除けずとも充分な広さがあり、自宅には無い畳の香りを味わっていた。
「お腹いっぱい」
「だな、どれもすげー美味かった」
「今日は朝からずっと運転してくれたし、かなり疲れたんじゃない?」
「あれくらい――」
「どうもありがとう。一日中楽しかったし嬉しいわ」
ごろりと畳の上を転がって近付いてきた葵は、俺に覆いかぶさるように腕で上半身を起こしそう言った。今の動きで乱れた浴衣から白い肌が覗く。穏やかな笑顔はやはりとても好みのもので、俺の顔にサラサラと触れる髪の毛が心をもくすぐる。
「言っただろ? 俺が幸せにしてやるって」
葵の頭をグッと引き寄せキスをすると、全身を俺に預けて葵からも口付けてきた。
「なぁ、葵は俺のこと……――――」
大人になってきちんと好意を伝え合う必要なんてないと思っていたが、好きだと言われて付き合いだすのとは違いイレギュラーな結婚をしてしまった俺らには気持ちの確認は必要なのではないだろうか。
そう思い訊ねようとしたが、いざ口に出すと気恥ずかしさが勝ってしまいその先の言葉に繋がらない。
「ん? なぁに?」
「俺のこと、す――」
「あ、電話……多分、尊の鳴ってる」
葵が部屋の隅にある荷物を指さす。耳を澄ますとスマホが震える音がした。
「無視すればいい」
「休暇中の夜にかかってくるなんて、大事な仕事の話かもしれないわ」
「……」
確かに一向に鳴りやむ気配もなくしつこくて気が散る。いいところだったのにと電話の主を恨む気持ちで荷物を漁ると、発信者は親父だった。
「悪い、出る」
「えぇ、そうして」
今はロサンゼルスに滞在しているであろう両親はいつもこちらの時間を考えずに電話してくるが、そうは言ってもこの時間なら向こうだってまだ真夜中というか早朝のはずだ。何かあったのだろうか。
「もしもし……は? え、急だな……いや、俺今家にいなくて――あぁ、会社でもない。夏休みで……」
『ねぇ~、そこに葵さんもいるの?』
「んぁ? 母さんもいたの? いる、けど……」
こちらの様子を伺っている葵に手招きすると隣に寄り添うように近付いてきたので、ハンズフリーに切り替える。
『あ、葵さん!? 私、尊の母です~!』
「!?」
バッと俺を見て襟元を正した葵が咳払いを一つして応答する。
「はい、葵です。初めまして。お忙しいと伺っていたものでご挨拶が遅れ申し訳ございません」
『あぁ、いいのいいの、そういう堅苦しいのは! こっちこそ顔も出さずにごめんなさいね~。今お父さんから尊にもチラッと話したんだけど、昨日日本に帰って来たのよ~。すぐにまたLAに戻るんだけど~。でね、そうだ尊結婚したんだったわって思い出して! 夜だしアレかなーって思ったけれどまだ寝る時間じゃないしいいかなって電話しちゃったの。お話してみたくて!』
「そうでしたか。お疲れのところ気に留めてくださりありがとうございます。実は今、尊さんが旅行に連れてきてくれていまして。丁度これから温泉にでも入ろうかと思っていたところなんです」
『あらぁ! 旅行中に悪いことしちゃったわね~! うふふっ、新婚さんなのに~!』
特に動じることもなく丁寧に答える葵に感心しつつ、テンションがやたら高い母さんに若干の苛立ちを覚える。多分コレは俺をからかいたい気持ちが強いんだろうと予想できて落ち着かない。
「で? 何か用なの?」
俺が口を挟むと「せっかちね」なんてむくれた様子で親父に替わったようだ。
『我々としても是非葵さんにご挨拶したいと思ってね。日本に滞在中に時間を取れたらと思ったんだが――』
折角の葵との休暇だというのに親に会わなければならないのは気が進まないが、いつまでも葵と顔を合わせられないというのも今後何かと不都合がありそうだ。
「葵の予定も確認して後で連絡するよ」
そう言って電話を切り、二日後の昼食を一緒に摂ることで話はまとまった。
「……とんだ邪魔が入ったなぁ」
ぼやく俺に苦笑しながら緑茶を淹れてくれた葵は特に言いかけた言葉を気にする様子もなく、先にお風呂に入ったらと促してきた。
「折角の部屋風呂だし一緒に入ろうか?」
「私はいいけれど尊が恥ずかしがるもの、疲れてるでしょうしゆっくり浸かったらいいわよ」
体よく断られ一人で客室露天風呂に入るが、俺が一方的に片想いしているような状態で一緒に入るのは色々キツいだろうからこれで良かったのだと自分を納得させる。
満天の星空は海と交わり二倍の煌めきを見せてくれる。いつか葵と一緒にこの景色を楽しむことが出来るのだろうか。
「あれ? 出掛けてた?」
風呂から上がると紙袋と財布を手に持った葵が立っていた。
「えぇ、まだ売店開いてる時間だったから。旅行の話もしたし、お義父さん方にもお土産をと思って。無難にココ限定のお菓子にしちゃったけれど良かったかしら」
「好き嫌いもないと思うし大丈夫。気遣わせてすまないな」
「構わないわ、義理とはいえ私の両親でもあるのだし。私もお風呂入ってくるわね」
葵がバスルームへと消えた後の部屋はガランと広くてつまらない。浴衣姿も見れた、喜んだ様子も見れた、キスもした。
楽しい旅となったが、コレで満足していいのだろうか? 新婚旅行なのに?
今時学生カップルだってもっと特別な夜を過ごすのではないだろうか。
これまで何度も何度も繰り返し考えているが、やはりまだこの先の関係は望むべきじゃないのかもしれないと思い至る。出会ったあの日からすべてが俺に委ねられた関係で、その気になれば今すぐにでも抱くことは出来る。でもそれをしないのは、適当に付き合っている相手ではなく今後ずっと一緒に暮らしていく葵だからだ。さっきの様子からしても、今の葵は俺へ敵意を抱いているわけではないだろうし、全く脈がないわけでもないんじゃないかと思う。俺ばかりが葵に夢中なのも解せない。こんなにいい男と結婚して一緒に暮らしていて好きにならないなんてことあるのだろうか。あまり関わりのない女ですら俺に想いを寄せるというのに。
――色々と御託を並べたところで、結局俺が強引に迫ることが出来ないのは葵に嫌われたくないからなんだろう。
風呂上がりの葵を見るのは初めてじゃないのに浴衣効果は抜群で、戻ってきた葵が少し暑そうに手でパタパタと顔を扇ぐ様子一つに目を奪われる。
「冷蔵庫に冷たい飲み物って入っていたかしら」
湯上りのツルツルの肌に乾き切っていない長い髪がはらりとかかる。
「そう言うと思って葵が風呂入ってる間に自販機で買ってきておいたぞ」
500mlの缶ビールを二本冷蔵庫から取り出し、一本を葵の頬に当てる。
「ひゃ!? 冷たっ」
「ははっ、風呂上がりはコレだよな」
「もう……」
二人同時にプルタブを起こして小さく乾杯する。ビールを煽って窓際の椅子に腰を下ろし、葵も座るよう促す。
風呂からは一緒に見られなかった景色は此処からも同じように良く見えた。何も無理に風呂から見ることは無い。今の関係ならこうしてビール片手に同じ浴衣を着て同じ景色を楽しめるだけで充分なのではないかと思う。
「お風呂から綺麗な景色を見られて、尊と同時には楽しめないなと思っていたの。でも此処からの景色も同じく素敵だわ。新婚旅行らしい良い思い出になるわね」
似たようなことを葵も思っていたことに多少驚きつつ、それ以上に幸福感で胸が満たされるようだった。
うん、今はコレで充分。
「明後日はさ、急なことで悪いけどよろしくな」
「任せて。尊には勿体ないくらいの素晴らしい女性と結婚したんだと思わせるわ」
本当に親父達はそう思うだろうし葵を気に入るのは想像に難くない。
俺はこの結婚で葵だからこそ得られる喜びもメリットも沢山あるが、果たして葵にとってはどうなのだろうか。社長就任以外にメリットがないのであれば俺じゃなくても他のある程度名のある男なら誰でもよかったのではないか。
それこそ、葵が認めるイケメンでも探したほうが――
「俺も葵に尊と結婚して良かったって言わせたいな」
何を言っているのと目を丸くする葵は、すぐに目尻を下げて続けた。
「そんなのわざわざ言うまでもないでしょう」
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