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彼の唇と甘美な痛み
台所で調味料や、調理用具をチェックする。冷蔵庫に野菜が残っていたので、パスタの材料にしようかとおもった。ツナ缶もあるのも都合がよく、紫紋への昼食は時間をかけずに用意できそうだった。
ひとまず千夏は野菜を刻み始めた。
しかし千夏の頭の中を占めるのは、紫紋の影のことばかりだった。明らかに紫紋の影は人間のそれではなかった。何かと見間違えたのだろうかとも思ったが、なぜか、あれを紫紋の影だと断言できる自分がいた。ここの家主には何かあるのだろうか……仕事柄できるだけ雇用主のプライバシーをあれこれ詮索する神経はもっていない。けれどあまりにあれは異質で……
「痛っ」
千夏は思わず小さく悲鳴をあげた。考えごとをしながら野菜を切っていたので、そのままうっかり指を切ってしまったようだ。すぐに水で傷を流す……まったく考えごとをして指を切るなんて、あまりに凡ミスすぎる。すこしでも血が落ち着いたら、絆創膏を自分のカバンから持ってこようと思っていると、紫紋が家に入ってきた。
「どうしました、声が聞こえましたが……」
あんな小さな声でも聞こえてしまうのかと、千夏は困ったように目を動かした。それから観念したように、ぼそぼそと言った。
「いや、指を切ってしまって……すいませんが、食事がちょっとお待ち下さい」
「怪我っ、大丈夫ですか」
目を見張る紫紋に、千夏はいやいやととりなす。
「いえ、ちょっと変なことを考えてしまって……お気になさらず」
「そうですか……しかし、血がとまってます?」
「あ……なんか止まらないですね……」
なんでだろうと千夏が頭をかしげると、紫紋が静かに言った。
「どうも、あなたのことを私の家具たちが警戒しているようですね」
「へ……」
警戒って……とはなると同時に紫紋が千夏の手を取った。そしてそのまま紫紋は躊躇なく指先をくわえる。そして傷口から出る血を舐めて、啜った……指への刺激で背筋が震えた。熱に浮かされたような気分になる。
「っ、ぁ、はぁ……」
熱っぽい吐息を出してしまうと……目をつむり千夏の指先を舐めていた紫紋は、驚いたような顔をした。
「傷は家具が警戒を解かなければとまりません……だから私の体液と血液を混ぜて、家具たちの警戒を解かせましたが……」
指先から唇を離した紫紋を立ったままで見てられず……へなへなと千夏は膝を崩す。
「なぜ、あなたは意識を保って……昨日の記憶もあるようですし」
千夏は少しでも息を落ち着かせようとする。潤んだ瞳で紫紋を見た。
「やっぱり昨日の方なんですね……」
紫紋は千夏と目線が合うように身をかがめ、小さく頷いた。
「……そうですよ、昨日の男ですね」
「紫紋さん、あなたはいったい何者ですか……」
千夏の瞳には、まだ紫紋の影が異形な姿で映っている。
紫紋は少し困ったような顔をした。
「催淫も魔力も効きづらいあなたに、嘘はつけませんね……」
紫紋は目を伏せた。
「そう、私は……悪魔と呼ばれるものです」
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