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優しい悪魔は言いました「恋を知りたいのです」
普通だったら、悪魔なんですと言われて、戸惑ったり、何を言っているのだと疑問に感じるのが普通だろう。しかし千夏は紫紋の言葉が、けして嘘を言ってるわけでも、たちの悪い冗談を言っているわけでもなく、ただ誠実に事実を言ってるように感じた。
……とても昼食を作っている状況ではなかった。紫紋が
「もう少し、話を聞いていただけないでしょうか……私の力が通じないあなただからこそ、聞いてほしい話です」と言った。
そこで作りかけの料理を中断し、切った野菜もパックにしまう。自分のも作っていいということで、二杯のコーヒーを淹れた。そして二人は大きなテーブルで向かい合い、椅子に腰を掛けた。
紫紋は少し恥ずがしげに、口を開いた。
「さきほど、悪魔だと話しましたが、もうだいぶ力が衰えてはいるんです……よく物語の悪魔は、とんでもない魔法で、自分を召喚したものの、願いなんて叶えるでしょう? あんなことはとても出来ません……ただ知識と薬草術が得意なので、お金を対価に人を癒やす仕事をしています」
千夏はその言葉に頭をかしげる。
「ほんとに悪魔なのかな……って活動をされてるんですね」
「私が悪魔っぽい、らしいといえるところがあれば、何もしなくても人を堕落させる、催淫でしょう。私とBARで会ったとき、あなたは感応しづらかったですが、他の人は記憶をなくすほど、行為に夢中になり、果ててしまうのです」
真面目な説明とわかりつつも、あの夜のことを持ち出されると恥ずかしくなる。けれど抱かれた自分だから分かるのだ。紫紋と夜を共にするのは気持ちがいい……溶けそうなくらいだ。
あの夜の記憶もあるが、幾分夢ではないかと疑いたくなる自分すらいる。
「人が果ててしまうのは、ちょっと本意ではないので……実際面倒なことも現実的にありますし、魔力で記憶を混濁させて、何かの夢だった……と思わせていました。それも本意をではなかったのですが……目的のために行動しているのに、悪魔の力で人が酔ってしまってというのを繰り返してます」
目的という言葉が気になった。千夏に負担をかけないよう、終始調子の変わらない穏やかな口ぶりだったが、本意ではないという時、わずかに眉をひそめるのだ。目的のために行動しても実が結ばず、本意ではないことになる……紫紋の苦悶は具体的になにかわからないが、とても人間的に見えた。こんなに恵まれた容姿、大きな一軒家に住むほどの財力や仕事についても、紫紋は苦しんでいるのか。
千夏は紫紋との距離が少し近くに感じて、思わず聞いてしまった。
「紫紋さんは、いったい何を目的に、夜出歩いてたんですか」
紫紋は物憂げに言った。
「知りたいことがあって、動いていました。昼間は仕事で忙しいこともあるので」
「知りたいこと……?」
紫紋はまっすぐに千夏を見た。千夏は息をのむ。キレイな瞳だった……こんな宝石のように綺麗で、胸がぎゅっとする切なさを感じる瞳を、千夏は見たことがない。紫紋はゆっくりと息を吐いた。
「恋を知りたいのです……」
「恋ですか?」
「悪魔は普通であれば、恋を知らないのです、人を堕落させる存在が、恋や愛を育む必要はありません。実際私も恋が出来ていません……人が先に堕ちてしまうから」
努力しても叶わぬ夢……それでも追いかけずにいられない……紫紋の恋を知りたい思いの源流がなんなのか、よくわからないが。それでも憐れみを覚えずにいられなかった。
どうすればいいのだろう……千夏が逡巡していると、紫紋が立ち上がり、自分の元に近づいた。
そしてかしずくように、膝をつく。
「し、紫紋さん……」
動揺して挙動不審になってしまう千夏に、紫紋は思い切ったと言わんばかりの顔で言った。
「千夏さん、一つ私の願いを聞いていただけませんか……対価はいくらでも払いますので」
「願い……ってなんですか」
紫紋は小さく頷いた。
「私に、恋を教えてくれませんか? 私の魔力が通じないあなただからこそ……この話をしています」
紫紋は千夏の手を取った・
「もっとわかりやすく言えば……恋人になってくれませんか? ごっこ遊びかもしれませんが、それでも恋を知りたいんです……!」
純粋すぎるほど切なる、紫紋のお願い。
紫紋の唐突な申し出に、言葉をすぐに千夏は出せなかった。
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