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1忘れられない想い
「水月さん、悪いんだけど、今日、残業お願いできるかな」
社員食堂で弁当を食べていた波奈は、声をかけられ、口の中にあったブロッコリーを慌てて飲み込む。
顔を上げると、二十代後半の男がテーブルのそばに立っていた。
眉を下げ、申し訳なさげに、波奈を見下ろしている。
「いいですよ」
波奈は迷うことなく了承する。
波奈には家族も恋人も、友人すらいなかった。
定時で帰ってすることといえば、買い物に行き、食事の作り置きするくらいだ。
昨夜、一週間分の作り置きをしたばかりだったので、今晩は早めに寝支度をして、先週の休日、迷いに迷って購入した小説を、布団の中で読むつもりだった。
読書はいつでもできる。
残業すればその分だけお金が入るので、断る理由はなかった。
「いつも悪いね。昨日、入った派遣さん。子どもが小さいらしくて、残業できないらしいんだ」
そう言いながら、彼……沢渡は、波奈の前の、空いている席に座った。
水月波奈が四年前から勤めている工場は、正社員が十人ほどしかいない。
残りは派遣社員と、パート社員だ。
沢渡は十人ほどしかいない正社員のうちの一人だった。
『いい大学出てるらしいよ。うちの幹部候補なんだって』
沢渡に関する噂を、波奈と同じパート勤務で、同じ部署で働いている杉浦が教えてくれた。
今年で五十歳になるという杉浦には、すでに成人済みの子どもが三人いるうえに、孫までいるという。
明るくて、容量も良いし、悪い人ではないのだが、お喋りで噂好きの女性なので、波奈は彼女のことが苦手だった。
『沢渡くんと波奈ちゃん、お似合いじゃない。向こうも波奈ちゃんに気があるみたいだし。付き合ちゃえばいいのに』
悪気はなく、冗談の延長線なのだろうが、波奈にけしかけることもあった。
今もそうだ。
杉浦は、隣のテーブルに座っていたのだが、波奈たちを意味深な目で、ちらちらと見ている。
居心地が悪くなるけれど、沢渡に失礼だし、席を変えることはできない。
とりあえず早めに弁当を食べてしまおうと思うのだが、沢渡が話しかけてくるのをやめないので、箸が進まない。
「水月さん、料理上手なんだね。手が込んでる」
「レシピ通りに作ってるだけですよ」
「それでもすごいよ。毎日、作るのも大変でしょう?」
「……作り置き、してますし」
「作り置き?」
面倒だったが、訊ねられているのに無視するわけにもいかず、波奈は適当に作り置きのレシピを教える。
「水月さんと結婚すれば、味気のないコンビニ弁当ではなく、毎日、手作りのお弁当作ってもらえるのか」
波奈は彼の食べている弁当を、ちらりと見る。
焼き肉がご飯の上に敷き詰められている。
できることなら、取り替えて欲しいくらいだ。
はは、と波奈は虚しくなって、適当に愛想笑いをした。
沢渡は背はそう高くなかったが、清潔感がある爽やかなタイプで、顔立ちも整っている。
物腰も穏やかで、女性にモテるタイプだ。
悪い人ではないのだろうし、杉浦が時々口にしている通り――『優良物件』なのだと思う。
けれど、波奈は彼のことが少し苦手だった。
波奈は今年で二十四歳になる。
思春期の頃ならともかく、周りから親しいのを茶化され、異性を意識してしまうようなタイプでもない。
先日、波奈はスーパーで、牛肉のパックを横目に、鶏のささみ肉を選んだ。牛肉を食べている彼に嫉妬してるのが理由……でも、もちろんない。
彼のことが苦手な理由は別にある。
沢渡が少しだけ、波奈の初恋相手に似ているからだ。
初恋を今も引きずっている自身に呆れるが、こればっかりは、どうしようもなかった。
「どうかした?」
箸を止めて、物思いに耽っていた波奈は、佐渡の言葉にはっとし、我に返る。
「いえ、何でもないです」
波奈は、軽く笑み、首を振った。
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