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策士危うし
私の待ち受けが変わったのは、一昨日のことだ。
「雪下先生」
放課後、職員室に入ろうとドアに手を伸ばしかけたとき。
すすすと足音も立てずに近づいてきた羊介くんから、声をかけられた。
「どうしたの?職員室に用事ですか?」
「部活に行く途中です。ねえ」
ちょいちょいと手招きされたので、一緒に窓際へと移動する。
「ラッキーの超絶サイコーの写真が撮れたんだけど、見ない?朝送ろうと思ったんだけどさ、時間がなくて」
羊介くんが手にするスマートフォンの画面には、見れば誰でもが笑顔になってしまうような、ラッキーのヘソ天写真が表示されていた。
「ボール抱えたまま寝ちゃったの?」
「そう。これ、待ち受けにしない?萌黄さんってば、初期設定のまんまじゃん」
「変え方がよくわからないんだもの」
「じゃあ、そっち送って変えてあげるよ。あと、乗り換え案内のいいアプリがあったよ。欲しいって言ってたじゃん?遅延とか通知して、迂回案内もしてくれるやつ。インストールする?」
「わあ、助かる。こないだも講義に大遅刻しちゃって」
「んじゃスマホ貸して。今から担当教員と面談?長くかかりそう?」
「どうかなぁ。授業の進め方のアドバイスとかもらいたいから……」
「部活前にやっといてあげる。終わったら田之上先生に預けとくよ。それなら、部活中の俺に声かけなくてもいいから、気も楽でしょ。……会いに来てくれてもいいけど」
「部活動の邪魔はしたくないから。ありがと。じゃあ、これ」
その日以降、私のスマホの待ち受けはラッキーになり、便利アプリもインストールしてもらって、快適になったのだけれど。
◇
「部活、行ってくる。……飲み会、気をつけてね」
「懇親会兼ねた打ち上げだってば。はい、いってらっしゃい」
さっきまでごねてたのが嘘のように、振り返りもせずに羊介くんは準備室を出ていった。
今日はわりと素直に引き下がったなあ、ちょっと大人になったのかな、なんて。
ノンキに考えている場合ではまったくなかったと知ったのは、あとのこと。
高校生たちに翻弄された同志と恩師に囲まれ、労いを受けてエールを交換する打ち上げは、先生方の本音や苦労話なども聞くことができて楽しく、有意義な時間だった。
「では、みなさんが望む将来を引き寄せられるよう祈っています!教え子がこんなに立派になって嬉しい!」
ベテランの古典教師が、涙声で締めくくった挨拶とともに懇親会はお開きとなり、会場の小料理屋から外に出たとたんに、同大の池之端君が肩に腕を回してくる。
「今日土曜だからさ、明日休みじゃん。雪下、二次会行くだろ?」
かなり酔ってる感じだけど、そんなに飲んでたかなぁ……。
アイ子の飲みっぷりがいつもスゴイから、他人の飲む量が適正なのかどうかの判断がつかない。
「今日はやめておく。さすがにこの二週間、緊張して疲れたもの。池之端君は元気だねえ」
「いや、くったくっただけどさ。だからこそ癒されたいわけだよ。いこーよ雪下。お前のほっぺた、まっかでカワイイ!癒されるっ」
「なに言ってんの、この酔っぱらい」
抱きすくめられた腕を解こうとするけど、なんだか拘束されてるみたいに離れない。
……タコかっ!
「みんなで行くのが嫌なら、ふたりで抜ける?静かに飲めるとこ知ってるよ」
ここは複数路線が乗り入れするターミナル駅周辺の店だから、確かにオシャレなバーも、わいわい騒げるカラオケも近い。
でも。
「静かにも、にぎやかにも、もう飲めないから帰る」
「じゃあ、次はいつ会う?せっかく仲良くなったんだからさ、飯でも食いに行こうぜ」
せっかく、とは。
特別仲良くなった覚えもないけれど。
実習以外で会う必要は感じないから、絶賛お断りだ。
なので、まずこの吸盤がついてるような腕を、どうにかして剥がしたい。
手がだんだんと胸のほうに下がってくるのはわざとなのか、無意識なのか。
指摘したほうがいいのか、刺激しないほうがいいのかと考えあぐねていたとき。
「せんせーたち、こんなところでナニやってんですか」
それはそれは聞き慣れた声がした。
「ん?キミ誰?」
「アンタほんとに酔ってんの?池之端せんせー。実習期間中はお世話になりました。2年の木場野です」
「えぇっ?!」
池之端君が驚くのも無理はない。
プライベートの羊介くんは服のチョイスが大人っぽいせいか、高校生に見えないのだ。
前髪も後ろに流してセットしていて、雰囲気がまるで違う。
多分、ちょっと無理してるんだと思うけど。
……させてしまっているのだろうけれど。
でも、精悍な顔にその恰好はよく似合っていて、大学生と言っても違和感がない。
「木場野?!ほんとに?ってかこんな時間に、こんなとこで何してるんだ?高校生が」
「こんな時間って、まだ9時前ですよ。予備校が終わったところです」
「あ、そっか。6時始まりだったからそんなもんか。でも、こんなとこで……」
「地下街の本屋に行こうと思って。ところで、池之端先生」
羊介くんの目が狼みたいに光った。
「それってセクハラじゃん。萌黄さん嫌がってんのがわかんないの?いい加減にしろよ」
「萌黄、さん?あぁ、やっぱ親戚とかだった?妙に親しげだもんな。うぉっ?!」
べりっと力任せに腕をはがされた池之端君が、よろけて後ろに一歩下がる。
「ちっ」
ガラ悪く舌打ちした羊介くんが、池之端君を斜交いににらみ下ろした。
「親戚なんかじゃねぇよ。俺の大事な人だよっ。萌黄さん、まだ用事あんの?そいつに」
「ないよ」
正直助かったけれど、「ある」なんて言った日には、噛みつきそうな顔をしているなあ。
「そ。じゃあ、池之端せんせーって、もう先生じゃねぇよな。気をつけて帰れよ、このセクハラヤロウ。写メ撮ったからな。これを理由に萌黄さんに嫌がらせなんかしてみろ。速攻バラまかれる覚悟しとけよっ」
羊介くんはそれだけ言い放つと、私の手を取ってぐいぐいと歩き出した。
「っとに。だから、気をつけろって言ったのに。なんでこんなにスキだらけなの?」
ぶつぶつ文句を言ってはいるけれど、歩くペースは合わせてくれているし、握る手は優しい。
「よーすけくん」
酔いが回ってきたのか、発音が怪しくなってしまった。
「ちょっと待って。今、水買うから」
「だいじょーぶだよ」
「そんなんで何が?何が大丈夫?」
「よびこー行ったんだね」
「通ってるって知ってるじゃん」
「今日は、授業のない日じゃないかなー?」
羊介くんの肩がビクリと揺れる。
「こんな遅くに、おうちにはなんて言って出てきたの?」
「……予備校の補講」
「よーすけくん」
こちらを見ることもなく歩き続けるその手を、ちょっと力を入れて引っ張ったら、その場で羊介くんが立ち止まった。
「明日のデート、中止です」
「えっ?!」
大好きな人がやっと振り向いてくれたけれど、言っておかなければならないことがある。
「映画は中止。勉強会を、します。高校の正門前で待ち合わせです。聞きたいことがあるの。でも、今日はもう遅いから」
「ぐぇ」
握られていた手を振りほどいて、鳩尾に軽く拳をめり込ませると、大げさなうめき声が上がった。
「改札まで、一緒に行こうね」
「……明日、何時?」
「何時にしよう?」
不安そうな羊介くんを笑顔で見上げると、形のよい瞳がすっと細くなる。
「早くがいい」
「10時くらい?」
「もうちょっと早く」
「9時くらい?」
「遅い」
「えぇっ?!10分で校門まで行ける、よーすけくんじゃないんだから」
私の家からだと、高校まで小一時間はかかるのだ。
「じゃあいいよ、9時で」
渋々といった様子でうなずく恋人に笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「可愛いなぁって思って」
「萌黄さんのほうがカワイイに決まってんだろっ」
「そんな決まりはありません。よーすけくん」
「んだよっ」
「お水、買おう!」
「……もー」
やっと口元をほころばせた羊介くんが、再び手を握って横に並んでくれた。
「改札前のコンビニに行こう。んで、明日は9時だからな。寝過ごすなよ。寝過ごしたらオニ電するからな」
やりそうだなぁと思いながら、羊介くんに手を引かれてコンビニに入ったけれど。
その背中に「覚悟しとけよ」とつぶやいたことは、可愛い恋人は知らないと思う。
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