牙を得る瞬間

1/1
前へ
/43ページ
次へ

牙を得る瞬間

 太陽は夏が戻ってきたみたいだけど、風はけっこう涼しい。  木陰に伏せてると気持ちよくて、ついウトウトしてしまう。 「ちがっ、俺はそんなつもりじゃ……」  レジャーシートの上で正座しているヨースケが、焦って前のめりになっているのを眺めながら、大きなアクビが出た。 「どんなつもりがあろうとなかろうと、こんなことをしてはいけません」  ヨースケの真正面に座って厳しい顔をしているのは、いい匂いがするヨースケのトクベツちゃんだ。  なんでトクベツちゃんかっていうと、最初にあのおねえさんになでてもらったとき、ヨースケに言われたからだ。  「なでてもらったのはラッキーだけじゃないからな。僕なんか、一緒のスイミングだったんだからな。僕のトクベツなんだからなっ」って。  最初に会ったときにはヨースケよりずっと大きかったけど、ヨースケがバカでかくなったもんだから、向かい合ってる姿はとってもちっちゃく見える。 「でも、俺……」  トクベツちゃんを前にしたヨースケは、あんなにでかくなったのに。  泣きそうな顔はあのころのまんまだ。    そう、ヨースケが「僕」から「俺」になったころ。  桜が咲いて、散って、青葉になっていくにつれて元気がなくなっていった、中学に入ったころ。 ◇ 「おはよ、ラッキー」  まだ朝ご飯にもならない時間。  ヨースケは最近あんまり眠れないみたいで、朝早くに散歩に連れてってくれるんだ。 「……昨日も連絡なかった。今日は、あるかな……」  玄関でスマホを眺めては、毎日おんなじことを言うのが最近のお決まり。  桜が咲く前は妙に浮かれていたのに、それがウソだったみたいに元気のない足取りで歩くから、ちょっとよっきゅーフマン。  もっと走りたいんだけどなー。  まあ、弟分の元気がないとあれば、アニキとしてはつき合うっきゃないから、ここはガマンしてやるか。  めずらしく丘の下まで足を伸ばすと、まだシャッターが下りた店が並ぶ商店街を、大人たちがせかせかと駅に向かって歩いている。  その大人たちに交じって、ヨースケと同じジャージを着た集団が前からやってきた。 「ち」  軽く舌打ちしたヨースケが、進行方向を変えようとしたんだけど。 「よーぉ、キバノじゃん」  集団の中で一番デカい、ボーズ頭のヤツが早足でこっちに近寄ってきた。 「……うん」 「なにが”うん”だよ。相変わらずスカシやがって」 「おはよーございますだろっ。挨拶キホンだろー」  遅れてヨースケを囲んだジャージ軍団が、口々にわぁわぁワメく。 「……オマエらだって挨拶なんかしてないだろ。早く朝練、行けよ」 「なに、そのブッサイクなイヌ。キバノんちのワンちゃん?足短くってダッサっ」  集団のひとりが、持っていたサッカーボールをボンボン蹴りながら、ギャハハって笑った。 「ジャックラッセルはみんなこんなだよ。ブサイクだと思うなら見なきゃいいだろ」  ソイツの顔も見ないで、ヨースケがオレのリードをひっぱったとき。 「んだよっ、その言い方!」  最初に寄ってきたデカいヤツが、ヨースケを思いっきり突き飛ばしたんだ。  そのとき、ヨースケはまだそれほど大きくなかったから簡単によろけて、囲んでいたほかのヤツに勢いよくぶつかった。  ソイツはまた別のヤツとしゃべってたから、身構えもできなくて。  弾みで通路に出ていたゴミ箱を倒して、片足を突っ込んじゃったんだ。    がらんがらん!  ガードレールに当たったごみ箱の音に、急ぎ足の大人たちも、ちらほらこっちを振り返って見てる。 「うわっ!」 「きたねー」 「くっさぁ」  感じが悪いなぁ……。  群れの仲間を大事にしないヤツラなんか、オレだったらすぐに追い出すな。   「てめぇ、ナニすんだよっ」  仲間から(わら)われたソイツが怒鳴って、ヨースケの襟首をつかんだ。 「やめろって」  むっとしたヨースケがソイツの腕を払う。    そりゃそうだ。  ヨースケのせいじゃないもんな。   でも、振り払ったヨースケの腕が運悪く、デカいヤツの顔面にヒットしたんだ。 「いてぇだろーがっ!」  顔を真っ赤にしたデカいヤツの足がヨースケを蹴ろうとして、オレの腹に当たった。 「きゃぅん!」    いや、オレは強いよ?  いつもだったらキバをむいてやるよ?  でも、いきなりだったから、びっくりしちゃってさ。 「あっ!ラッキー!」  ヨースケが慌ててプルプル震えるオレを抱き上げてくれた。 「……ボールじゃなくて犬を蹴るのか」  デカいヤツをにらみ上げるその迫力ったら、いつものヨースケじゃないみたい。 「あんだとっ?!」 「イヌに何してくれてんだっつってんだよ!!」  ヨースケの目はギラギラ光ってて、悔し気に歯を食いしばった口が今にも噛みつきそうで、テレビで見たオオカミみたいだった。 「サッカー部の万年補欠はボールを蹴ることができないから、イヌを蹴るしかないんだな!すっげーミジメじゃん!!」  それは商店街に響き渡るほどの声で、抱っこされたオレもびっくり。 「そんなデカい体して、こんなちっちゃなイヌしか相手にできないワケ?!デカいだけで動きがノロいからキーパーにも向かないんだっけ。足も遅い、判断力もない。試合に出させてもらったこともないくせに態度だけは大きい。オマエ、なんでサッカー部にいんの?なんでオマエら、こんなヤツの言うこと聞いてんの?選手として三流以下のコイツのっ」 「くっそっ!」  ドガっ!!  思いっきり振り上げられた(こぶし)が、ヨースケのほっぺたを潰すように振り下ろされて、オレをぎゅっと(かか)えたままのヨースケが吹っ飛んでいった。 「きゃあっ」 「なに、ケンカ?」 「大勢でひとりの子を殴ってるぞ!」 「ワンちゃんかばってるわよ、あの子!」  仕事に行く途中の大人たちが騒ぎ出して、あとはもう、何がなんだか。  あおりにあおったのはヨースケだけど、そんなものは大人たちは聞いちゃいなかったみたい。  それに、あの群れがどんなに言い訳したって、腫れ上がったヨースケの顔の前では、なんの説得力もなかった。  唇は切れて、ほっぺたはみるみるふくらんでいって。  右目なんかは血管が切れたのか、まっかっかになってた。  しかも、その腕にオレを(かか)えて「うちの犬が蹴られたからかばいました」なんて言うもんだから、同情が集まるに決まってる。  ずっとそばについててくれたオバサンのひとりなんて、電話を受けて駆けつけた中学の先生に、どんだけヨースケが勇敢だったか、オレを一生懸命守ったか(さすがに言い過ぎだと思うけど)、サッカーボールを持ってたヤツらが、ひきょうだったかをまくし立てたんだ。  群れが先生に連れていかれるとき。  ヨースケは低い声で、でも、全員に聞こえるようにつぶやいた。 「これ、傷害事件だからな。これから医者に行って診断書取る。警察に行くかどうかは俺の気持ち次第。オマエら覚悟しとけよ。俺は許さないからな、絶対に」    カッコいいけど、これって、こないだヨースケに噛みつかれた兄ちゃんが言ってたセリフだな。  「兄弟だって、ケガさせたら傷害だぞ」って。  兄ちゃんはもう高校生だから、いろんなこと、よく知ってるんだ。  ヨースケはそのまま、おかあさんが来るまでそこにいて、付き添ってくれてたオバサンたちは「かわいそう、かわいそう」って言ってた。    でも、オレは知ってるぞ。  ヨースケはわざと殴られたんだって。  あんな遅いパンチ、ヨースケならよけられた。  だって、ヨースケは4つ上の兄ちゃんと、もっと壮絶な兄弟げんかをしてるんだから。  殴られる前に、ニヤっと笑ったヨースケに気づいたのは、きっとオレだけだったろうな。  とにかく、その事件からヨースケは「俺」になって、学校でカラまれることがなくなったんだって。  家でもめっきり口数が少なくなって、毎日部活とスイミングで泳いで。  それで、ときどきスマホを眺めてはため息をついて、泣きそうな顔で手帳から手紙を出しては読んで、またため息をついていた。 ◇ 「羊介(ようすけ)はどうしちまったの」  どんなにからかってもカラんでも、無視して自分の部屋にこもるようになったヨースケを見て、兄ちゃんがおかあさんに聞いたのは夏休みに入るころ。 「さあねえ」  洗濯物をたたんでいた手を止めて、おかあさんもヨースケの姿が消えた階段を振り返る。 「なんにも言わないから、わかんないわよ」 「学校ではどうだって?面談あったんだろ」 「あんたより、よっぽど成績いいわよ」 「うっそだろ?!だってあいつ、毎日アホみたいに泳いでるじゃん。いつ勉強してんの」 「課題のほとんどは、学校の休み時間に済ませちゃってるらしいわ」 「んなことしてっと、中坊連中からガリベン認定されんぞ」 「そんなこともあったらしいけど、”泳ぐ時間を確保したいだけだ”って言い返して、それっきりだって」 「ウマい返しだな。あいつ、いつの間にそんな賢くなったんだ?あのアホ羊介(ようすけ)が」 「志望校は、丘の上の高校だって言ったみたい」 「はぇっ?俺だってムリって言われてランク下げたのに?!」 「背もそのうち抜かされそうね」 「ウジウジしてた、カワイイ羊介(ようすけ)はどこ行っちまったんだっ」 「変えてくれた人がいたのよ」 「へーぇ?誰、それ」 「さあねえ。……なんにも言わないから、わかんないわよ」  おかあさんはさっきと同じことを言って、はあっと大きな息を吐いたんだ。 
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加