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牙を得る瞬間
太陽は夏が戻ってきたみたいだけど、風はけっこう涼しい。
木陰に伏せてると気持ちよくて、ついウトウトしてしまう。
「ちがっ、俺はそんなつもりじゃ……」
レジャーシートの上で正座しているヨースケが、焦って前のめりになっているのを眺めながら、大きなアクビが出た。
「どんなつもりがあろうとなかろうと、こんなことをしてはいけません」
ヨースケの真正面に座って厳しい顔をしているのは、いい匂いがするヨースケのトクベツちゃんだ。
なんでトクベツちゃんかっていうと、最初にあのおねえさんになでてもらったとき、ヨースケに言われたからだ。
「なでてもらったのはラッキーだけじゃないからな。僕なんか、一緒のスイミングだったんだからな。僕のトクベツなんだからなっ」って。
最初に会ったときにはヨースケよりずっと大きかったけど、ヨースケがバカでかくなったもんだから、向かい合ってる姿はとってもちっちゃく見える。
「でも、俺……」
トクベツちゃんを前にしたヨースケは、あんなにでかくなったのに。
泣きそうな顔はあのころのまんまだ。
そう、ヨースケが「僕」から「俺」になったころ。
桜が咲いて、散って、青葉になっていくにつれて元気がなくなっていった、中学に入ったころ。
◇
「おはよ、ラッキー」
まだ朝ご飯にもならない時間。
ヨースケは最近あんまり眠れないみたいで、朝早くに散歩に連れてってくれるんだ。
「……昨日も連絡なかった。今日は、あるかな……」
玄関でスマホを眺めては、毎日おんなじことを言うのが最近のお決まり。
桜が咲く前は妙に浮かれていたのに、それがウソだったみたいに元気のない足取りで歩くから、ちょっとよっきゅーフマン。
もっと走りたいんだけどなー。
まあ、弟分の元気がないとあれば、アニキとしてはつき合うっきゃないから、ここはガマンしてやるか。
めずらしく丘の下まで足を伸ばすと、まだシャッターが下りた店が並ぶ商店街を、大人たちがせかせかと駅に向かって歩いている。
その大人たちに交じって、ヨースケと同じジャージを着た集団が前からやってきた。
「ち」
軽く舌打ちしたヨースケが、進行方向を変えようとしたんだけど。
「よーぉ、キバノじゃん」
集団の中で一番デカい、ボーズ頭のヤツが早足でこっちに近寄ってきた。
「……うん」
「なにが”うん”だよ。相変わらずスカシやがって」
「おはよーございますだろっ。挨拶キホンだろー」
遅れてヨースケを囲んだジャージ軍団が、口々にわぁわぁワメく。
「……オマエらだって挨拶なんかしてないだろ。早く朝練、行けよ」
「なに、そのブッサイクなイヌ。キバノんちのワンちゃん?足短くってダッサっ」
集団のひとりが、持っていたサッカーボールをボンボン蹴りながら、ギャハハって笑った。
「ジャックラッセルはみんなこんなだよ。ブサイクだと思うなら見なきゃいいだろ」
ソイツの顔も見ないで、ヨースケがオレのリードをひっぱったとき。
「んだよっ、その言い方!」
最初に寄ってきたデカいヤツが、ヨースケを思いっきり突き飛ばしたんだ。
そのとき、ヨースケはまだそれほど大きくなかったから簡単によろけて、囲んでいたほかのヤツに勢いよくぶつかった。
ソイツはまた別のヤツとしゃべってたから、身構えもできなくて。
弾みで通路に出ていたゴミ箱を倒して、片足を突っ込んじゃったんだ。
がらんがらん!
ガードレールに当たったごみ箱の音に、急ぎ足の大人たちも、ちらほらこっちを振り返って見てる。
「うわっ!」
「きたねー」
「くっさぁ」
感じが悪いなぁ……。
群れの仲間を大事にしないヤツラなんか、オレだったらすぐに追い出すな。
「てめぇ、ナニすんだよっ」
仲間から嗤われたソイツが怒鳴って、ヨースケの襟首をつかんだ。
「やめろって」
むっとしたヨースケがソイツの腕を払う。
そりゃそうだ。
ヨースケのせいじゃないもんな。
でも、振り払ったヨースケの腕が運悪く、デカいヤツの顔面にヒットしたんだ。
「いてぇだろーがっ!」
顔を真っ赤にしたデカいヤツの足がヨースケを蹴ろうとして、オレの腹に当たった。
「きゃぅん!」
いや、オレは強いよ?
いつもだったらキバをむいてやるよ?
でも、いきなりだったから、びっくりしちゃってさ。
「あっ!ラッキー!」
ヨースケが慌ててプルプル震えるオレを抱き上げてくれた。
「……ボールじゃなくて犬を蹴るのか」
デカいヤツをにらみ上げるその迫力ったら、いつものヨースケじゃないみたい。
「あんだとっ?!」
「俺のイヌに何してくれてんだっつってんだよ!!」
ヨースケの目はギラギラ光ってて、悔し気に歯を食いしばった口が今にも噛みつきそうで、テレビで見たオオカミみたいだった。
「サッカー部の万年補欠はボールを蹴ることができないから、イヌを蹴るしかないんだな!すっげーミジメじゃん!!」
それは商店街に響き渡るほどの声で、抱っこされたオレもびっくり。
「そんなデカい体して、こんなちっちゃなイヌしか相手にできないワケ?!デカいだけで動きがノロいからキーパーにも向かないんだっけ。足も遅い、判断力もない。試合に出させてもらったこともないくせに態度だけは大きい。オマエ、なんでサッカー部にいんの?なんでオマエら、こんなヤツの言うこと聞いてんの?選手として三流以下のコイツのっ」
「くっそっ!」
ドガっ!!
思いっきり振り上げられた拳が、ヨースケのほっぺたを潰すように振り下ろされて、オレをぎゅっと抱えたままのヨースケが吹っ飛んでいった。
「きゃあっ」
「なに、ケンカ?」
「大勢でひとりの子を殴ってるぞ!」
「ワンちゃんかばってるわよ、あの子!」
仕事に行く途中の大人たちが騒ぎ出して、あとはもう、何がなんだか。
あおりにあおったのはヨースケだけど、そんなものは大人たちは聞いちゃいなかったみたい。
それに、あの群れがどんなに言い訳したって、腫れ上がったヨースケの顔の前では、なんの説得力もなかった。
唇は切れて、ほっぺたはみるみるふくらんでいって。
右目なんかは血管が切れたのか、まっかっかになってた。
しかも、その腕にオレを抱えて「うちの犬が蹴られたからかばいました」なんて言うもんだから、同情が集まるに決まってる。
ずっとそばについててくれたオバサンのひとりなんて、電話を受けて駆けつけた中学の先生に、どんだけヨースケが勇敢だったか、オレを一生懸命守ったか(さすがに言い過ぎだと思うけど)、サッカーボールを持ってたヤツらが、ひきょうだったかをまくし立てたんだ。
群れが先生に連れていかれるとき。
ヨースケは低い声で、でも、全員に聞こえるようにつぶやいた。
「これ、傷害事件だからな。これから医者に行って診断書取る。警察に行くかどうかは俺の気持ち次第。オマエら覚悟しとけよ。俺は許さないからな、絶対に」
カッコいいけど、これって、こないだヨースケに噛みつかれた兄ちゃんが言ってたセリフだな。
「兄弟だって、ケガさせたら傷害だぞ」って。
兄ちゃんはもう高校生だから、いろんなこと、よく知ってるんだ。
ヨースケはそのまま、おかあさんが来るまでそこにいて、付き添ってくれてたオバサンたちは「かわいそう、かわいそう」って言ってた。
でも、オレは知ってるぞ。
ヨースケはわざと殴られたんだって。
あんな遅いパンチ、ヨースケならよけられた。
だって、ヨースケは4つ上の兄ちゃんと、もっと壮絶な兄弟げんかをしてるんだから。
殴られる前に、ニヤっと笑ったヨースケに気づいたのは、きっとオレだけだったろうな。
とにかく、その事件からヨースケは「俺」になって、学校でカラまれることがなくなったんだって。
家でもめっきり口数が少なくなって、毎日部活とスイミングで泳いで。
それで、ときどきスマホを眺めてはため息をついて、泣きそうな顔で手帳から手紙を出しては読んで、またため息をついていた。
◇
「羊介はどうしちまったの」
どんなにからかってもカラんでも、無視して自分の部屋にこもるようになったヨースケを見て、兄ちゃんがおかあさんに聞いたのは夏休みに入るころ。
「さあねえ」
洗濯物をたたんでいた手を止めて、おかあさんもヨースケの姿が消えた階段を振り返る。
「なんにも言わないから、わかんないわよ」
「学校ではどうだって?面談あったんだろ」
「あんたより、よっぽど成績いいわよ」
「うっそだろ?!だってあいつ、毎日アホみたいに泳いでるじゃん。いつ勉強してんの」
「課題のほとんどは、学校の休み時間に済ませちゃってるらしいわ」
「んなことしてっと、中坊連中からガリベン認定されんぞ」
「そんなこともあったらしいけど、”泳ぐ時間を確保したいだけだ”って言い返して、それっきりだって」
「ウマい返しだな。あいつ、いつの間にそんな賢くなったんだ?あのアホ羊介が」
「志望校は、丘の上の高校だって言ったみたい」
「はぇっ?俺だってムリって言われてランク下げたのに?!」
「背もそのうち抜かされそうね」
「ウジウジしてた、カワイイ羊介はどこ行っちまったんだっ」
「変えてくれた人がいたのよ」
「へーぇ?誰、それ」
「さあねえ。……なんにも言わないから、わかんないわよ」
おかあさんはさっきと同じことを言って、はあっと大きな息を吐いたんだ。
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