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不機嫌な羊にご用心
大人しげで端正な顔をしているけれど、うっすら眉間に寄ったシワで不機嫌が伝わってくる。
そんな、かぶった羊の皮から狼がチラ見えしている男子生徒が、ガタガタとイスを引っ張ってくると、私の机の前に陣取って座った。
「ここがわかりません」
広げられた教科書には、授業での説明が細かに書き込まれている。
「嘘をついてはいけません。小テストで満点でした」
「急にわからなくなりました。……ねぇ、なんでこんなとこにいんの?」
ぐでっと机に突っ伏してにらみ上げる人狼、ではなくて羊介くんは、さらに狼寄りになったらしい。
「レポートが書けないからどいて。だいたい、どうしてこの場所にいるのがわかったの」
机に覆いかぶさる背中を揺すってみたけれど、羊介くんの体はびくともしなかった。
実習生控室に来ては絡んで(本人曰く質問して)くる羊介くんのおかげで。
教育実習が始まってしばらくすると、「雪下さんと木場野君って、ずいぶん親しいよね」と、ほかの実習生たちから注目を浴びるようになった私は、田之上先生にSOSを出した。
「ふむ、それは困りましたね。妙な噂になってもいけないですし」
3年前からずっと見守ってくれていた先生が、顔の横で鍵をプラプラさせて、にっこりと笑っている。
……なんて頼りになるの。
後光が差して見えます、先生!
「体育教官室の隣に、使っていない準備室があるんですよ。事情を話したら西田先生もほくそ笑んで、いえ、快い笑顔で貸してくださいました」
羊介くんが、からかったという西田先生に助けられるとはと、ちょっと複雑な気持ちになったけれど。
その日以降、落ち着いた放課後を過ごせていたのに、最後の最後でばれてしまったようだ。
「靴があるのに教生室にいなきゃ、探すに決まってんだろ」
「そんな決まりはありません。部活は?」
「……今日は休む」
「だめ。特に用事はないんでしょ?」
「萌黄さんも来る?」
「……」
「来ないの?」
返事をしない私に向ける羊介くんの視線には、ちょっと胸が痛むけれど。
一緒に行けない理由を自覚しているのだろうかと、ため息が出た。
◇
それは、実習も中盤に差し掛かったころのこと。
部活見学を願い出た私に、案内役の田之上先生が音楽室に足を踏み入れた、その瞬間。
部室がしんと静まり返ってしまった。
今年の夏も、二重人格はご降臨だったんだなぁと思いながら続いて音楽室に入ると、現役部長の肩から一気に力が抜けていく。
「なぁんだ。ゆっきー先輩、いや雪下先生のご見学だったんですね」
後輩からの先生呼びがくすぐったくて思わず鼻の頭をかいていたら、短い舌打ちが聞こえてきた。
「え、木場野先輩、機嫌悪くない?」
「実習生なんてジャマだもんね」
肩を寄せて囁き合う前列の女子高生たちに、部長が苦く笑う。
「おい、雪下先生はうちのOGだぞ。今年はOB訪問にはいらっしゃらなかったけど、最初の挨拶でも触れてたろ」
「ええっ」
「そうでしたっけぇ」
アタフタする様子が微笑ましいな、と思っていたら。
「聞いてねぇのかよ。そんな低レベルの耳してんなら、スイブなんかヤメ、」
「いいのいいの!」
羊介くん節を遮るように、私は大きく手を横に振った。
「お邪魔しちゃってごめんね」
「……ジャマじゃねぇよ。ペットは持ってきた、んですか?」
妙にむっすりとした羊介くんが立ち上がって、自分の隣に場所を作るとそこにイスを置く。
「もちろん。一緒に吹いてもいいですか?」
部長から笑顔でうなずいてもらったので同じく笑顔を返したら、また舌打ちをされてしまった。
「お行儀が悪い」
小声で注意すると、不穏なまなざしが返ってくる。
その態度には物申したかったけれど、久しぶりの演奏は楽しいし羊介くんのトランペットはさらに上達しているし。
それは心躍る時間を過ごさせてもらった。
「オマエさー。いっつもその調子で吹けよ」
リョータ君から肘で突かれた羊介くんは、むすっとしたまま機嫌が直らない。
「いつもと変わんねぇだろ」
「自覚なしかよっ。とたんに極彩色の音出しやがって」
「ホントですよ!」
トランペットパートの最前列に座る1年生女子が、輝く笑顔で羊介くんを振り返った。
「いつもにもましてカッコイイです!ホレ直しちゃいます!」
「あ?」
「バカ、やめとけって」
リョータ君が慌てて止めに入ったけど、ちょっと遅かったみたい。
「フザケたことぬかしてるヒマあったら練習しろよ1年。曲のジャマしてんのはどっちだよ。オマエのペットはオモチャか?チャルメラか?チャルメラのほうがまだマシだわ、ラーメン出てくるし」
羊介くんのたたみかけに、初々しい1年生が見る間に涙目になっていく。
ここは、教習生の出番だな。
「木場野君」
少し低い声で呼びかけると、羊介くんの背がぴしっと伸びた。
「鞭を振るいすぎてしまった場合、そのフォローが大切ですけれど、あなたはそれができますか?」
「……う……」
何かを思い出したような羊介くんの唇が、真一文字になる。
「あなたは彼女に、それをやるんですか?」
「やりません、できません。……ごめんなさい」
「ん、よろしい」
「悪かったな」
私に向かって頭を下げ、涙目女子にちらりと目を向けた羊介くんに、前列集団からどよめきが起きた。
「き、木場野先輩が謝った!」
「頭下げたっ」
……いったいどんな先輩なのよ、羊介くんってば。
「あ~、そういう木場野は久しぶりだなぁ。なんなら毎日来てくれませんか?雪下先生」
にやにや笑っている部長を、半眼でにらんだ羊介くんだけど。
その後はつつがなく部活動が行われて、ほっとしたまではよかったのに。
「どうして俺たち、つき合ってるって言っちゃダメなの。スイブの2、3年生はどうせ知ってるじゃん」
帰り支度を待っていてくれた羊介くんと校門まで歩く途中で、いきなり問い詰められてしまった。
「わざわざ言いふらすことはないでしょう」
「なんで?言いふらしたい。自慢したい」
「こんな年が離れたカノジョでも自慢になる?」
冗談めかしてみたけど、羊介くんの機嫌は回復しない。
「萌黄さんは、俺が六つも下だから恥ずかしいの?」
「そんなわけないでしょう」
「じゃあ、なんでダメなの」
「だって、羊介くんはまだ高校生だもの」
「高校生だと、どうして」
「未成年だからね。私たちは後ろ指をさされるような関係ではないけれど、そう思ってくれない人もいるでしょう」
「他人が何を言おうと、今の俺はもう気にしないよ」
「羊介くんのメンタルは信じてる。ただ、偏見によって、羊介くんが中傷を受けるのは嫌なの。年上に誑かされた、かわいそうな高校生、とかね」
力一杯握られていた羊介くんの拳にそっと触れると、悔しそうだった顔がほんの少し緩む。
「まあ、確かに?年上の魅力はだだ漏れだけど」
ふざけたドヤ顔を作ってみせると、やっと羊介くんが笑ってくれた。
「それとも、周りに決意表明しないと、心変わりしちゃいそうなの?」
「違う、けど」
「けど?」
「だって、俺のだって言っておかないと、萌黄さんはすぐ手ぇ出されちゃうからっ」
「ちょっと、声が大きいっ」
羊介くんのシャツの袖を摘まんで、人影の絶えた校門脇まで引っ張っていく。
「実習で一緒の池之端だって、妙に萌黄さんにべたべたしてんじゃんっ」
素直についてきた羊介くんの声が、またちょっと大きくなった。
「同じ大学だから、ほかの人より親しいだけだよ」
「今日の部活だって、1年坊主のくせに、”雪下先生って美人っすね”とか言ってるヤツが、いたんだぞっ」
「なにそれ可愛い」
1年坊主って。
羊介くんも2年坊主なのに。
可愛いなぁ、本当に。
「私が心変わりしちゃうと思ってるんだ」
首を傾けて見上げると、小さなため息が返された。
「そんなに心配?」
「だって、俺はまだガキだから。萌黄さんを幸せにはできないから」
「私が幸せじゃないと思ってるなら、羊介くんはバカよ?」
「……バカって言った」
「聞いただけでしょ。羊介くんは、私を不幸だと思ってるのって。こんなに大好きな人と一緒にいるのに」
「……ぐぅ……」
最大限に声を絞って気持ちを伝えると、羊介くんは苦悶しつつ嬉しそうという器用な顔を見せてくれる。
「わかってくれた?」
「ん。……ねぇ、実習終わったら、またデート」
「わかった、わかったからっ」
世間体も立場もなく想いにまっすぐでいられるのは、この年齢の特権かもしれないなあと思いながら、白旗を上げたのは私のほうだった。
◇
「行かない」
「なんで?」
「実習最終日だもの」
「なおさらじゃん。また来てくれないかなって言ってるヤツ、いるし」
それは嬉しいけれど、あの雰囲気を思い出せば、遠慮したほうがいいだろう。
「レポートも仕上げないといけないから」
「今日中に提出なの、それ?」
「違う、けど」
「じゃあ、どうして」
羊介くんの声が氷点下になった。
「打ち上げがあるのっ」
ほら、そんな顔する。
だから、言いたくなかったのに。
「どこで?何時から?」
「聞いてどうするの」
「迎えに行く」
「お酒も出る席よ。高校生が出向く場所じゃない」
「……もういい……」
うつむいて黙り込んでしまった羊介くんに心が痛む。
どうしても超えられない年齢の壁を感じてしまうと、羊介くんは、こんなふうに心を閉ざしてしまう。
どうやってフォローしようかなと考えていたとき。
「ねえ、待ち受けのラッキーさ、やっぱウケるでしょ」
突然、羊介くんのほうから話題を変えてきた。
「え?うん。誰に見せてもカワイイねって言われるよ」
机の上に置いたスマホを起動させると、おなかを上に向けたラッキーが、ボールを抱えながら眠っているという、愉快な待ち受けが表示される。
「だよね。そんだけケッサクな写真って、なかなか撮れないからさ。……ほかのに変えたくなったら言って。またやってあげるから」
「ありがと。こういうの苦手だから助かる」
「うん。任せて」
今までの不機嫌さが嘘のように、羊介くんの口の両端がにっと上がった。
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