お米とぼく

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お米とぼく

 亜米利加荘(アメリカそう)という名の築三十年あまりの木造アパートの二〇三号室が良知先輩の根城である。S大学農学部のキャンパスから目と鼻の先の小さなおんぼろアパートは家賃二万三千円。六畳の和室と小さな台所。風呂とトイレは別、洗濯機は廊下に外付けという学生専用アパートだ。先輩曰く『米という文字が入った建物が気に入ったから』らしいのだが、先輩の米への愛の深さのすさまじさを見るとともに、和風テイストの建物にこの名前をつけた大家さんの奇天烈ぶりは先輩と通じるものがあると思えてならなかった。 「さあ、遠慮なくあがりたまえ」  先輩に促されて薄暗い部屋にこわごわと足を踏み入れる。こうなってはもう逃げられないという覚悟を持ってここへ来たものの、やはり上がるという行為になると腰が引けるのは致し方ない。先輩はそんなぼくの心情など、露ほども汲んでくれる気配なく、ずんずん部屋の奥へと入っていく。  締め切っていたカーテンと窓を開ける。カラカラといい音を立てて窓が滑っていく。小さな穴を補修してある網戸から、密封されていた男臭が抜けていく。明るい日差しが差し込んで、薄暗かった部屋を照らし出す。見た目のワイルドさとは違い、部屋の中はきっちりと整理されている。埃も塵もない。ただし家具もほとんどない。小さなテーブルと、くたびれた座布団がひとつずつ、ぽつんと六畳間の真ん中に置かれているだけで、文明の利器と呼べるものは見当たらなかった。  なんともわびしさを感じずにはいられない部屋だ。ここに先輩がひとりで寝起きしている姿を想像すると、なぜだかぼくはさみしくなって、ぎゅうっと自分を抱きしめてしまった。 「ささ、くつろぎたまえ」  先輩が唯一の座布団をぼくに勧めてくれる。つぎはぎだらけの座布団だが、縫い目は美しく揃っている。先輩はああ見えて、手先は器用らしい。  ぼくは座布団に座った。先輩は袂から白いたすき紐を取り出すと、袖をすいすい、くるりとまとめた。それから流しの下から土鍋を取り出して、冷蔵庫でなにやらがさごそやっている。土鍋を流し台に置くと、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを持ってきて、土鍋の中に入れた。ザッザッという音がする。米を研ぎ始めたのだろうか。水を切る音が続く。それからまたザッザッとリズミカルな音が響く。それからまたペットボトルの水を注ぎ、流す。ザッザッという音が繰り返される。続けてドボドボと水を注いで、流す。それからまた水を入れて、先輩はふうっと息を吐きながら額の汗を拭った――ように見えた。  先輩は土鍋に火をつけると、すり鉢とおろし金を持って、ぼくのほうへやってきた。机の上にそれらを置くと取って引き返し、今度は片手に肌色の長い棒のようなものを持ってくる。ぼくの向かい側に座ると、先輩はしわぶいた。 「これはユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属。別名・ジネンジョである。今から貴様にこれを擦ってもらう」 言われるまま、ぼくは先輩から自然薯を受け取った。先輩は「さあ」と促した。自然薯とすり鉢とおろし金を交互に見て、ぼくは先輩に言った。 「皮を剥いてないですけど」 「かまわん。そのままいきたまえ」 「はあ、そうですか」  ぼくは遠慮なく皮ごとごりごりと自然薯を擦る。ねっとりとしたいもがすり鉢の底にみるみる溜まっている。台所のほうでカタタンッと蓋が持ち上がる音がした。土鍋のほうへ視線を向けると、持ち上がった蓋の間から煮え立った湯が吹きこぼれ、シューシューと蓋から蒸気が吹き上がっている。先輩はパタパタと駆け寄っていくと「じゅうじゅう吹いたら火を引いて~」と口ずさみながらコンロの火を弱めた。蓋の持ち上がる音が止み、蒸気も弱まった。ぼくはその間も手をとめることなく、ごりごりといもを擦り続ける。  先輩が流しの下の扉を再び開けた。またがさごそやっている。ぼくはいもを擦る。先輩が二人分のお茶碗と箸を持って戻ってくる。どうやら先輩も一緒に食べる気らしい。  ぼくの手にしていたいもがすっかり擦りあがると、先輩は「一握りのワラ燃やし~赤子が泣いてもふた取るな~」と愉快に歌いながら土鍋の火を操作した。かわいらしい黄色のミトンを両手にはめて、先輩が土鍋を持ってやってくる。急いですり鉢をどけると、先輩はそこへ土鍋を静かに置いた。 「ではそれをよこしたまえ」  両手が空になった先輩にすり鉢を渡す。先輩がふふんっと上機嫌に鼻を鳴らす。すり鉢を流し台に置いた先輩は下の引き出しから缶詰をひとつ取り出した。  いったい何をする気だろうか。気になる。ものすごく気になる。だがここで席を立っては、先輩の罠にまんまと引っかかってしまうことになりかねやしないだろうか。   ぼくは土鍋と先輩を交互に見つつ、えいっとばかりに腰を上げた。それからつつっと先輩のそばへ寄っていく。先輩はちらりとぼくのほうへ視線を投げたあと、ふふふんっと鼻歌交じりに雪平鍋で湯を沸かした。それからぼくに缶詰を見せつける。 「サバの水煮缶?」  先輩は得意げに鼻先を天井へ向けてから、床に出しておいた別のすり鉢に缶詰の中身をごっそり開けて、ごりごりと鯖の身をつぶし始めた。  はてさて、この鯖の身がなにに使われるのか。つみれ団子はイワシの身だったはずである。まったくもって先輩のやること、なすことの予測がつかない。ただただ、先輩の挙動を見守るしかないぼくを、先輩はニタニタと口を緩めて見つめ返してくる。  沸騰した湯へ充分にすりつぶされた鯖の身をこしながら入れていく。それから味噌を取り出すと、濃い目に味噌を溶いていく。 「サバだしの……味噌汁?」  たまらず問うが、先輩は「まあまあ」と言って、擦ったいもの中へ卵をひとつ落とした。手際よく混ぜ合わせる。きれいに卵と混ざったいもに、先輩はさっき作ったサバだしの味噌汁をとろとろと入れた。入れながら、ごりん、ごりんとすりこぎ棒をリズミカルに動かし続ける。職人のごとき手さばきに、ぼくは思わず「ほうっ」と感嘆の吐息をもらした。先輩はふふふふふんっと先ほどよりも上機嫌に鼻歌を歌った。ねっとりと重たかったいもが味噌汁と混ざって滑らかになり、黄金の光を放つ。なんと神々しいことか。ぼくはごくりとつばを飲み込んだ。 「さあ、これでいい。では実食と参ろう」  先輩がすり鉢を土鍋の横に置いた。ぼくは行儀よく座布団に座って待った。盆に薬味を乗せてきた先輩が、ぼくの向かいにストンっと腰を下ろした。 「いざ!」  固唾を飲んで見守るぼくの目の前で、先輩がゆっくりと土鍋の蓋を開けた。ふわんっと白い煙が立ち上って、甘く花のような香りが鼻孔をくすぐった。煙の下から白く輝くお米が姿を見せた。なんと艶やかで、煌めいた米だろう。一粒、一粒がしっかりと存在を主張している。  ふと気づくと、ぼくの体には細かな震えが走っていた。ハッとして先輩を見る。先輩はお米を十字に切って、四分の一ずつひっくり返す。きつね色のおこげが姿を見せる。たまらず、ぼくは鼻息を荒くした。先輩が米を優しく混ぜていき、茶碗によそった。 「さあ、召し上がれ」 「い、いただきますっ!」  ふるえる箸の上にちょこんと乗った白飯から、ホクホクと湯気が上がる。もう一度つばを飲み込んでから、ゆっくりと口に運んだ。 「はうっ!」  なんと清らかな味であろうか。混じりっ気のない風味。甘く軽やかな口当たり。それでいてたまらなく瑞々しいのである。 「うまい……」 「そうだろうとも。スーパーの米とはわけが違うからな! ブレンドされていない米の美味さがこれだ!」 「ブレンドされてない?」 「スーパーで売られてる米はいいもんも悪いもんも一緒くたになってる。新米と明記されていても、実は古米が入っているというようにな!」 「知らなかった……」  先輩の説明にぼくは頭が真っ白になる。もしかしたら、ぼくの知らないことがもっともっとあるのかもしれないーーと思え始めてきた。  ああー! たかが白飯! されど白飯! なんとも悩ましい!  先輩の炊いた米は奇天烈極まっている先輩とは違い、まるで穢れを知らない少女のような純粋さでぼくを魅了していく。全身が喜びで満ち足りていく。細胞が叫びをあげる。 ――日本人、万歳!  ぼくの中にあったDNAが高らかに声をあげているのだ。  箸がとめられなかった。一口、また一口と大事に咀嚼し、味わいつくす。茶碗の中身がすっかり空になったころには体の抹消まであまねく火照っていた。目頭も熱くなって、先輩を見る。先輩が滲んだ視界で満面の笑顔をたたえている。あの仁王のようなむさくるしい顔が菩薩に見える。なんたること、なんたること。 「では、もう一杯。お供といっしょに召し上がれ」  先輩が先ほど作ったとろろ汁を新しくよそわれた白米の上にかけた。さらにあさつき、きざみのりがパラパラっと乗る。緑鮮やかなねぎの色、ふわふわとゆれるきざみのりが早くお食べと促してくる。ぼくはおそるおそる、それを口に入れた。 「ふぬっ!」  これまで味わったことのないとろろ汁に、ぼくは目を剥いた。鯖独特の風味と自然薯の甘みがほどよいハーモニーを奏でていた。さらに白米と出会ったことで、両者はがっちりと手を取り合い、ぼくの口の中でオクラホマミキサーを踊っている。なんと香り豊かで味わい深いのだろう。そしてなめらかな中に鯖の身が入ることで食感のアクセントにもなっている。こんなとろろ汁は見たことも、聞いたこともない。 「ふふふ。驚いたであろう。掛川山間部で十一月から三月まで収穫される特産の自然薯に鯖だし、味噌汁と混ぜ合わせたこの郷土料理こそが、究極のとろろ汁と呼ばれる掛川いも汁なのだ」  先輩は胸を張って、がっはっはと豪快に笑った。  そう。彼は米をこよなく愛するがために、その白米に合う究極のお供も研究しつくしていたのだ。ぼくは先輩の米への愛の深さに感激がとまらなくなっていた。それほどまでに先輩の作る白米もお供も素晴らしかったのだ。それもこれも、ぼくが日本人でなければ味わいつくせないものである。こんな美味い米を知ってしまっては、ぼくはもうパンの世界、異国文化には戻れない――そう思えるほど、体の全細胞が「米! 米!」と叫んでいるのだった。  土鍋の中のものをきれいに平らげてしまった頃には、ぼくはすっかり米の呪縛にかかってしまっていた。台所で洗い物をする先輩の背中が広く、たくましく、神々しく見えるのだから。  だが――と、いくらか時間が経って冷静になってくると、悲しいかな、現実がぼくの目の前に押し寄せてきた。  先輩によって、ぼくの体の細胞はお米に目覚めてしまったとはいえ、ぼくは食べるものに事欠く苦学生である。自分たちの生活を切り詰めて、大学に通わせてくれる、ひとり暮らしをさせてくれる両親にこれ以上の負担は掛けられない。そのためにパン食べ放題のバイトに就いているのだ。もっと時給の高いバイトへ就けばいいのかもしれないが、今の生活は夜型のぼくにはしっくりきているし、なにより、早寝と夜中に家を空けることで光熱費を節約しているのだ。こういう涙ぐましい努力あっての生活であるのに。  さらにもっと悩ましいのは先輩である。先輩はいい人だ。お米を純粋に愛する日本人だ。先輩と共にお米の道を歩めるのはすばらしい経験となるだろう。  しかし、もじゃもじゃ頭の奇人変人である。そんな人と行動を共にするということは、かわいい女子とのうっとりするような甘い恋など夢のまた夢となってしまうに違いない。ああ、されど。されど……  ぼくはこの苦悩を、洗い物を終えた先輩に泣きながら訴えた。そして先輩とともに全日本お米を守る会を盛り上げていきたいという気持ちも伝えた。先輩はぼくの話を聞くと男泣きに泣いた。おいおいと声をあげて泣いた。ひしっとぼくを強く抱きしめて、さらに泣いた。ぼくも泣いた。先輩にしっかとしがみついて泣き暮れた。  ひとしきり泣いたあと、先輩はぷっくりと腫れ上がったまぶたの奥の小さな目をきらめかせ「案ずるな」とぼくに言った。 「女子(おなご)は刹那の夢。だが、米は一生だ。人生そのものだ。男の浪漫(ロマン)なのだ!」 「先輩はかわいらしい女子とのキャッキャウフフとか、夢に見ないのですか?」 「夢は見る。しかし二兎を追う者は一兎をも得ずだ。心を鬼にせねば、日本国は変えられぬ。大義の前では、我々の日常の夢など小さき問題だ」 「そうかなあ」 「それに会員が増えれば、その夢も叶おうというものだ」 「それはそうなんですけどねえ」 「なんの迷いも心配も要らん。俺を信じろ。だって」 「だって?」  ぼくは先輩に負けず劣らず膨れ上がったまぶたを押しあげて、先輩を凝視する。先輩は炊き立てのお米のように白い歯を見せて、ぼくに親指を突き出して見せた。 「我々には米粉パンという新たな未来が待っているではないか」  翌日、ぼくはぱんぱんに膨らんだベーカリーヨシカワの袋を携えて全日本お米を守る会本部である亜米利加荘二〇三号室を訪ねた。先輩とともに『米粉パン』の実食とお供の研究をするためである。  コンコンっとぼくは先輩の部屋をノックする。先輩が「やあ、よく来た」と部屋へ招き入れてくれる。 「ところで貴様……いや、きみの名前をまだ聞いていなかったな」 「久米喜朗(くめよしろう)です」  先輩が目を見張る。ぼくはコリコリと頭を掻いた。先輩があっはっはと高らかに笑った。ぼくもつられて、えへへと笑った。 「きみに合ったいい名前だなあ」  かくして、ぼくの大学生活は先輩と共においしい米とお供の研究に費やされることになる。もちろん、全日本お米を守る会の会員を増やす努力も忘れない。そしてこの情熱が日本中を巻き込む一大ムーブメントへ発展していくのだが、それはまた別のお話。 了
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