先輩との邂逅

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先輩との邂逅

「貴様、それはなんだ?」  そう尋ねてくる野太い声に、ぼくは焼きたての洋ナシデニッシュを咥えたまま顔をあげた。 ――あっ、やべえ。  そう思ったけれど時すでに遅し。ぼくの目の前には仁王像さながらに口を開き、顔を朱に染めた和装姿の男が大股開きで立っている。捲し上げた着物の裾の下にはにょっきりと、豊かな毛を蓄えた太い向こう脛が見えている。鳥の巣みたいなもこもことした髪はどうやらきつめの天然パーマらしい。S大学構内のカフェテラスには似つかわしくない、まるで横溝正史の小説に出てくる金田一耕助のようなこの男に、こうして声を掛けられるのは初めてだが、ぼくは彼のことをよく知っている。  S大学農学部農業経済学科四年生の良知定治(りょうじただはる)。大きな米農家の長男として生まれた先輩は、米離れが加速する日本を憂い、米文化日本国を取り戻すべく、大学一年生のときに『全日本お米を守る会』を立ち上げた。会員を増やすため、日夜奔走する先輩の姿は勇ましく、巷ではラストサムライだと称されているものの、会員はまったく増えておらず、先輩が会長にして唯一会員である。  そんな先輩は大学内外問わず有名で、まだ一年坊であるぼくですら、その名前と人物像を知っているくらいの大人物である。いや、大人物というよりは奇天烈極まりない人というほうが正しいかもしれない。そんな奇特な人物に声を掛けられた己の迂闊さに、ぼくは自分自身を呪わずにはいられなかった。 「おいっ、貴様。だから、それはなんだと問うている。答えないか」  良知先輩はずずいっと真っ赤な顔を寄せて、きつく問う。先輩のふさふさの眉毛はきっちり四十五度につりあがっている。分度器をあてて測りたくなるほどきれいな角度だ。 「ええっと。洋ナシのデニッシュ……です」 「洋ナシの……デニッシュだと?」  ぼくはデニッシュを口から離すと、隣の椅子に置いていたバッグからベーカリーヨシカワの袋を取り出して「先輩もおひとついかがですか?」と差し出した。  だが次の瞬間、ぼくの差し出したベーカリーヨシカワの袋は大きな弧を描いて宙に舞った。宙に浮いた袋から透明ビニールに入った大きな牛肉ごろごろカレーパンや甘め控えめ女性に優しいカスタードクリームパン、たっぷりソースが決め手の照り焼きチキンバーガーが飛び出して、ぽてっ、ぽてっ、ぽてっ、と床に落ちた。 「あーっ! ぼくのパンたちが! ちょっと、なにするんですか!」 「ええいっ、黙れ、黙れ、黙れぇいっ! この西洋かぶれが!」  良知先輩は歌舞伎役者みたいに見得を切った。顔はもうゆでだこみたいに真っ赤っかになっている。大きな両手で机をバンッと派手に鳴らす。深く身を屈めて、パンを拾おうと立ち上がるぼくの行く手を遮った。 「ちょっとどいてください。パン拾いたいんで」 「ならん」 「食べ物を粗末に扱ってはいけないと習いませんでしたか?」 「う……なんという精神攻撃!」 「三個合わせて合計五百六十円になりますが?」 「あい、わかった。拾っていい」  先輩がさっと身をかわす。ぼくは急いでパンを拾った。拾い終わるとすぐに先輩は「そこへ直れ」と言った。座り直す必要もないのだが、ぼくはしぶしぶと椅子に腰かけた。先輩は向かい側に腰を下ろした。 「貴様は日本人だな」 「どこをどう見ても日本人でしょうよ」  先輩は「ふむ」と無精ひげの生えたあごを触りながら、ぼくをじろじろと見つめた。特別イケメンではない。先輩ほど個性豊かな見た目でもない。鷲鼻でもなければ、おちょぼ口でもない。どこにでもいるような至ってノーマルな大学生。それがぼくである。 「出身は?」 「愛知県です」 「三河か? 尾張か?」 「三河です」 「八丁味噌だな」 「そうですね」  先輩の顔から赤が抜け、穏やかな肌色に変化している。どういうわけか目は爛々と輝き始めている。むしろ、ぼくに興味津々といった感じで前のめりになってきている。この質問のどこに先輩の興味を引く要素があったのか。凡人のぼくにはさっぱりわからない。 「ところで、朝はいつもパンなのかね?」 「はい。ベーカリーヨシカワで仕込みのバイトしてるんで。学校にはいつもバイト終わりで通ってきてます」 「なに? パン屋でバイトだと!」 先輩の右眉の端がピクリと動く。 「毎日か?」 「週5です」 「時給は?」 「900円と好きなパン食べ放題です」 「飽きんのか?」 「飽きるもなにも、食うに困ってる苦学生なんで」  ぼくの返事に先輩はくうっと目頭を押さえた。なんて感情が豊かな人なのだろう。いや、情緒不安定な人なだけかもしれない。十分前は鬼の形相で怒っていたのに、今は「かわいそうに」とさめざめと泣いている。 「ところで米は好きか?」  ぼくは『来たな』と身構えた。先輩がぼくに米を布教しようとしていることを察知したからだ。「特に」と答えを濁す。先輩はぐぬぬと着物の袖を噛んだ。 「嫌いではないのだな?」  ぼくは笑った。先輩も笑った。しばし笑顔で駆け引きが続く。先輩がずずずいっと身を乗り出した。ぼくがたまらず身を引くと、先輩はここぞとばかりに仕掛けてきた。 「よし。では貴様に美味い米と、そのお供を馳走してやろう。すればたちまち、米の虜になろうというものだ」
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