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1 帰ってくるなりオナラかよ
コロナのせいで、会社をたたむと言われたときは、震度5弱に相当するほど、足元がグラグラに揺れたものだけれど、今思えば、3日前のその揺れは、ほんの余震に過ぎなかった。
たった今、17時25分に起きた激震は、俺の体感では、マグニチュード8.4。日常生活が崩壊する大災害のレベルだ。
背中を壁に押しつけ、何とか体を支えたけれど、
「いたの?」
ただいまと言うでもなく、妻がサンダルを脱ぎ、スリッパを引っかけた。
「い、いるよ・・」
俺の家なんだから・・。
こっちも気が動転して、おかえりのひと言が出てこなかった。
完全にフリーズ。
そ、そんな、まさか、ありえない。
帰ってくるなりオナラかよ!
しかも、ドアが閉まるとすぐに発射。まるでJRの電車じゃないか!
発車と発射で、漢字は違うけれど・・。
買い物バッグをぶら下げた妻が、キッチンに消えた瞬間、俺の膝は完全に崩れた。
帰宅の一撃に、1ラウンドでノックアウト。音と臭いの迫力に、意識が飛んだ。
もしアパートの住人が、俺んちの前の廊下を通っていたら、いくらドアを閉めたとはいえ、豪快すぎるサウンドは、聞こえたんじゃなかろうか。
どれだけ我慢して、腹に溜め込んでいたものか。
締めていたケツの穴を思いっきり広げ、ついでに、下腹に力を入れて放った渾身の一発。
「ああ~」
1週間ぶりに、便通があったときのような恍惚のうなり声。
臭いがまたひどくて、俺に隠れて、
(何を食った?)
同じ食卓を囲んでいるとは思えないほどの悪臭。換気を一切していない、さびれた公園のトイレのような臭さ。消化機能が麻痺しているんじゃなかろうか。
ゴキジェットプロより、ゴキブリを秒殺する威力。
こういうときこそ、マスクが必要だった。コロナ対策だけじゃない。
オナラオリンピックがあったら、音と臭い、どちらの種目でも、確実に金メダルだろう。
★ ★ ★ ★ ★
百合の花というのは、独特の芳香を放つ。
妻の百合子も、独特の臭いを放った。
どっちの匂いも、むせかえるほど強烈だ。
そういえば、百合にはいろんな色があるそうな。黄色もあれば、オレンジやピンクもある。黒だってある。
とはいえ、一般的に思い浮かべるのは、白だろう。
百合子の場合は白。
それがぴったりの、清楚な女性だった。
初めて会ったのは大学時代で、俺のいた旅行サークルに、1年生の百合子が、友達と一緒に部室へやって来たのだ。夏休み前のことだ。
入ってきたとたん、地下にある薄暗い部屋が、LEDの照明がついたみたいに、パッと明るくなったことを覚えている。
彼女は白いワンピースを着ていた。裾が広がるAラインのシルエット。それが、百合の花びらのように見えた。
ハイビームのライトみたいに、あまりにもまぶしくて、目を合わせることができなかった。
彼女の周囲に、キラキラと星が舞う。
俺の錯覚でも何でもない。
女優専用のライトを、下から当てているのではないかと思ったほどだ。
これぞ、ザ・美人。
初めて目撃した。
セミロングのストレートヘアーは、シャンプーのCMに、モデルとして出てもおかしくないほどツヤツヤ。
目は、やや切れ長でスッキリ。
おちょぼ口で、口紅はひかえめのピンク。血を吸ったような、真っ赤っかじゃない。
芸能人みたいなオーラを放ち、俺の瞳孔も口も、開きっぱなし。
これが、一目惚れというやつだ。
遅れてきた青春がやってきたと、その日はスキップして帰ったほどだ。
★ ★ ★ ★ ★
百合子は、白百合の妖精。
きっと下着も純白で、ウエディングドレスと同じくらい、フリフリのレースが付いているに違いない。間違っても、黒やヒョウ柄は身につけないだろう。
そういえば、白い百合の花言葉は、純潔と威厳だそうな。
特に純潔となった由来というのが、ギリシア神話のエピソードからで、神ゼウスの妻・ヘラからこぼれた乳が、地上で百合になったという。百合はヘラの花とされ、清純や母性の象徴となった。
何と高貴な花ではないか。
白い百合は、マドンナリリーと呼ばれていて、キリスト教では、聖母マリアを象徴する花だ。
まさに、百合子はマドンナだった。
旅行サークルのみんなから、リリーと言われていた。
マドンナリリーだったのだ。
サークルのメンバーで、俺と一番仲がよかった悠平は、
「リリーはダメだって言ったろ? 抜け駆けはしないって、みんなで取り決めをしただろうがっ!」
付き合いがバレたとき、背後から腕を回して、首を締めてきた。
確かに俺は、サークル仲間と交わした取り決めを破ってしまった。出し抜くつもりはまったくなかったのに、自分でもどういういきさつでそうなったのか、詳細はすっかり飛んでいるが、飲み会の帰り道で告白したのだ。
お酒の力は偉大だ。
俺にヒーローような勇気を与え、リリーに、清水の舞台から飛び降りる勇気を与える。
飲み過ぎで、きっとリリーの体調がよくなかったのかもしれない。あるいは、下手物食いでもしようと魔が差したのか。
とにかく、それから俺たちの付き合いが始まった。
『美女と野獣』という物語があるけれど、俺の場合はみんなから、『美女と裏切り者』とか、『美女とユダ』とか言われた。
ユダという人物は、キリストを裏切った弟子の名前だ。
あとは俺の見た目から、『美女とアンパンマン』とか、『美女とガチャピン』とか言われた。
何を言われても平気だった。
高嶺の花を、この手にしたのだから・・。
しかし、掟破りは村八分。
気まずくなって、2人で旅行サークルを辞めた。
でもそのおかげで、彼女と日本各地、ときには海外へも、出かけることができたのだ。
災い転じて福となす。
思えば、残りの学生生活は、人生で一番濃密な、甘い時間だった。
★ ★ ★ ★ ★
コロナのせいで、結婚式はできなかったけれど、大学卒業から5年も経てば、メールはどれも、お祝いの言葉と一緒に、当時の思い出をつづった内容となる。
さすがに、裏切りアンパンマンへの、ののしりはない。
酒の勢いで告白し、浮気もせずに、交際を続けてきたことへの賛美。
お前のように、酒の力で告白すればよかったという後悔。
酒のおかげで、マドンナを射止めた羨望。
酒がらみのメッセージを読みながら、美人妻をもつ優越感に浸っていたものだ。
そして、新婚生活はまだ1年も経っていない。世間では、ホヤホヤと言われる時期。
行ってきますのチューは、新婚のあるあるだが、帰宅のブーは聞いたことがない。
マドンナリリーはどこへ行った?
何をしても、許すことができる時期ではある。
コーラを飲めばゲップは出るし、美女といえどもオナラはする。
音はなく、かぐわしい匂いでもないことぐらい、わかっている。
屁の大きさや臭いは、この際、目をつむろう。
そんなことより、俺の体が地震並みにグラグラと揺れたのは、野太いブーを放ち、
「ああ~」
と、うなったあとの反応だ。
恥ずかしそうにうつむいて、
「やだ、いたの?」
ほんのり赤くなった頬を両手で挟み、小走りでその場から逃げたなら、まだマドンナリリーの片鱗は残っていた。
でもそうじゃない。
恥じらいもなければ、開き直りすらない態度。
そして何よりショックなのは、クラスの中に必ず1人はいる、どうでもいい存在の男子に出くわしたときに発する、
「いたの?」
何の感情もない、乾いた言い方だ。
ああ、高校時代の自分を思い出す。
俺は、最愛の夫ではないのか?
そんな心の揺れが、体を揺らした。
★ ★ ★ ★ ★
人は変わる。変わって当然だ。
変わらなかったら、逆に恐ろしい。
そして、美人も変わる。
今は、美しさを保つネジが、たまたま1本緩んだだけ。メンテナンスをしてくれれば、マドンナリリーに戻るはず。
(大丈夫・・)
あちこちのネジが緩んで、ビルの爆破解体を連想するほど、一気に崩壊することはない。影も形もなくなるようなことは、決してないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、シュッシュッと、鬼のように消臭剤を玄関にかけていたら、
「枕にもかけといて。亮くんの、エグいから」
お前が言うなよ!
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