リクルート

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
一体どこへ行くんだ—— 20分前の出来事だった。 「まもなく、麻布十番です。お出口は、右側です」 車内アナウンスが言うと、もうすぐホームが見えてくるはずだった。続く英語のアナウンス。 ホームに入る。が、電車のスピードは弱まらない。 「次は、六本木一丁目」 あっという間にホームを置き去りにすると、アナウンスはそう言った。 え、と僕は思った。通り過ぎてしまったけれど、麻布十番。これはとんでもない体験をしているぞ、と思いながら心臓がドキドキし始めた。若干わくわくすらしたかもしれない。これはニュースになるぞ。華金、夜の地下鉄大暴走。運転手が抱えるストレスの闇——。 しかしおかしな違和感があった。すぐにそのボタンを掛け違えたような感覚が何か気づく。停車すべきホームを完全にスルーした電車に対して、他の乗客が一切反応していない。全員寝ているわけでもない。万が一誰一人麻布十番で降りる予定がなかったのだとしても、バスじゃあるまいし、通り過ぎていいホームなんてない。もしかして僕が知らないだけで麻布十番を通り過ぎる急行ができたのか?とつい頭を過ってしまったが考え直す。おかしい。乗客の顔を一人一人盗み見る。金曜日の19時。なかなか車内は混んでいた。会社帰りのサラリーマン、OL。半分は自宅に直帰しそうに見えたが、もう半分は夜の街に出かけそうにも見えた。 「まもなく、六本木一丁目です。お出口は、右側です」 六本木一丁目駅のホームもきれいに通り過ぎた。 僕はホームで待っている人がいたかどうか、しっかり見なかったことを後悔した。 僕が降りるはずの駅を電車が完全に無視してから、まもなく30分が過ぎようとしていた。 その間、驚いたことに一度も電車は停まらなかった。何かが確実におかしい。1番わけがわからないと感じるのは、他の乗客たちがこの事実を全く気にしていないことだった。 初めに麻布十番駅を通り過ぎてから、周囲の誰かに声をかけようとも思った。しかしすっかりタイミングを失ってしまった。正直なところ、あまりに不可解なこの状況に少なからず恐怖を感じていたせいもあった。“何かがおかしいと気づいていること”を誰にも、少なくともこの奇妙な乗客達には知られてはいけない気がしたのだ。そう思うと、何にも誰にも触れることができなかった。 電車は一向に停まらなかったが、なぜかアナウンスはホームに着く前のタイミングに合わせて確実に流れた。そのせいで、僕は毎回次こそ停まってくれるようにと期待することになった。期待というよりもはや祈りだった。しかしその祈りがどこかに通じることもなく、祈っていること自体も、いまや不気味に感じる周りの乗客たちに気づかれたくはなかった。不安だった。押しつぶされそうな不安を感じていた。 言い忘れていたが、麻布十番を通り過ぎてすぐ、当然僕は手持ちのスマートフォンで今夜会う予定だった人物に連絡を試みた。しかし、もともと電波の届きづらい地下鉄は、今日に限って完全スマートフォンを黙らせてしまっていた。思い切って電話もかけてみたが、SNS、メール含め全ての連絡手段は途絶えてしまっていた。——困った。困ったし、怖かった。 今夜は、最近個人事業主になったという知人の紹介で、彼が師と仰ぐ敏腕経営者の方に会う手筈になっていた。その知人も含め3人での食事会だ。 僕が新卒で今の会社に入社して5年。主に美容クリニック向けのシステムというニッチな商品の営業職について5年やってきた。入社早々辞めていった同期、3年はやったぞと謎に胸を張って3年きっかりで辞めていった先輩。5年経った今、後輩ができたことによるプラスの心境もあったし、業務に慣れてきたメリットももちろんあったが、どこかパッとしなかった。最近何かのテレビ番組で、仕事ができるやつほど会社を辞めていく、という話を聞いたことでより一層今の仕事生活における“このままで良いのか感”が湧き上がってしまったのかもしれない。湧き上がってしまった、と自覚したなら、もう心は決まっているということだ。僕も新しい世界に飛び込みたい。なんせまだ20代だ。知人も夢の脱サラをして、その師匠に教えを請えるなんてこんなチャンスはない。絶対に掴みたい。そんな最近であり、そんな今夜だった。 頭の端でなんとなくその感情を思い出す。しょうがない。僕のせいではないし、連絡手段も全て断たれているのだ。早めに着く予定だったので、まだ待ち合わせ時間にはなっていなかったが、まもなくその時間の5分前になるところだった。 「次は、赤羽岩渕です」 もうすぐ都内からも出ようとしていた。この際、きちんと止まってくれるなら終点まで行ってもかまわない。さすがに終点まで行ったら停まるに決まっているだろう。そう考えると少しホッとした。きっと、停まるに違いない。きっと。おそらく。多分——はたして本当に停まってくれるのだろうか? そういえば、めでたく個人事業主となった知人の仕事をまだ具体的には聞いていなかった。なにしろ急な報告だったのだ。今日の会ではそこから詳しく聞くつもりだった。一体どんな仕事によって脱サラを実現したのだろう。 ふと、心が開き直ってしまったのか慣れてしまったのか、電車が暴走し始めた当初より心も頭も落ち着いていることに気づいた。なんだか気分が晴れ渡っている。雲一つない。脳内に見えない快晴の空が広がっているようだった。キシリトールな風が吹き、あまりの爽快さに一瞬痛みすら感じる。しかしそのような感覚が続いたのも数分だった。 なんだか電車のスピードが早くなっている気がする。いや、確実になっている。これはしばらく乗っていないが新幹線のそれだった。地下鉄のレールの上を浮いているかのようにスムーズに滑っていく。僕はぐにゃりとした頭で吐き気を必死に抑えた。耐えきれず、えずいた。吐瀉はない。満員の状態から誰一人降りていないので、座れる席はずっとない。僕はドアの前の比較的空いているところにしゃがんだ。吐き気を耐える。しゃがんだまま頭をゆっくりと上げると、より一層気分が悪くなることになった。周りの乗客たちがぐにゃぐにゃになって僕の目に映ったのだ。自分の目の錯覚なのか、人々はまるで回転そのものでできていた。どこからが顔なのか、立っているのか座っているのか、何もわからない。ただ先程まで人間だったもの達が、今はごちゃごちゃとした何かになって僕の視界に広がっている。車内の吊革や手すり、椅子に変化はなく、“元”人間達だけが得体の知れない形状になりざわざわと揺れていた。たくさんの虫が大きな1匹の虫になり、それが蠢いているように見えた。僕はたまらず目を伏せ、顔を下げ、瞳を閉じた。 彼の眉間に深い皺が入るのを見ながら、マキタニさんは言った。 「ふむ。いい線いっているね。徐々に慣らしていけば、おそらくこれくらいじゃあ何の影響も受けなくなるだろう」 「本当ですか、よし。頼むぞぉ」 俺は彼の蒼白な顔に祈りを捧げた。室内の壁も天井も床もくすんだ灰色で、その中のベッドに横たわる彼の顔もより一層具合が悪く見える。 ここは麻布十番にあるマキタニさんの事務所内の研究室の一つ。マキタニさんは独自のサプリを独自で開発しているスペシャリストだった。若者の未来を切り開くため、社畜で苦しむ彼ら彼女らに本当の自立を促すため、だれもが理想の人生を手に入れられるのだと実感してもらうため、“生きる意欲”を刺激するサプリの開発を進めている。俺は知人の紹介でマキタニさんと繋がり、その思想に心底惚れてしまった。他者のためにとことん尽くせる信念。一切の妥協のなさとそれに付随する自信。 幸運にもマキタニさんについて行くことが許され、俺は先月5年勤めた会社に辞表を出した。マキタニさんはよりアクティブに現場で動ける人材且つ、自身がサプリを活用しながら広告塔になれる人材を求めていた。開発したそれを服用し、その効能や素晴らしさを伝えていくことができる者——。あまり覚えていないが、俺はそれには相応しくなかったらしい。後から聞いて自分自身にがっかりした記憶はまだそう遠くない。何にせよ、その職種に従事しているのやつの方が報酬も良く、マキタニさんに一目置かれているように感じたからだ。だから、今目の前で蒼白になっている知り合いのこいつもその職種に相応しいかもしれなくて、少しだけ嫉妬をしている自分もいる。 俺は、その職種に該当しそうな人材をマキタニさんに紹介する仕事をさせてもらっていた。マキタニさんも個人事業主で、俺はマキタニさんとは雇用の関係はなかったから、俺は俺でフリーの個人事業主としてマキタニさんから報酬をもらうことになっている。うまく紹介ができれば報酬も比例する。そのため嫉妬はしつつも、先程マキタニさんがこいつは適正である可能性が高いと発言をされたことは喜ばしく、俺自身も期待をしているのは事実だった。 他にも各々が個人事業主ながらもマキタニさんに付いている者はいて、彼らは俺が連れてきた応募者の対応を引継ぎ、サプリ適正テストの担当をしているようだった。人材をマキタニさんに紹介するまでがあくまで俺の仕事だ。その後のことは詳しくはわからないが、まずサプリの“活用実績が自身で作れる人材か”の適正を見て、問題なく服用が続けられると判断がされたら採用となる。今ベッドにいるこいつも、今夜麻布十番で待ち合わせをしてマキタニさんと会い、さっそく適正テストをすることになった。適正テストがサプリの体験だなんて、ありがたいことだ。大学時代に就活をしていたときなんて、国語やら数学やらはたまた謎解きのようなテストをよくやらされたもんな——と、俺は思い出す。 マキタニさんとお付きの彼らは、俺には見えないところにあるモニターを見ながらイヤホンを付けて何かを見聞きしていた。マキタニさんはときおり大人の微笑みを携えて、「彼、なかなかいいね」と俺に言ってくださる。格好良さが漏れていて、改めて憧れてしまう。 「非常にスムーズな幻影入り、リアルもよく覚えているし判断能力もそのまま。徐々に出てくる覚醒。一度完全に自分の脳内に順応させたのは本当に素晴らしい。君らは知らないだろうが、それは本当に気分が良いものなんだ。自分自身が真っ新な青空になったようにね。あとは——その後の副作用がまだ激しく出ているといったところか。とりあえず、もう今の量で大丈夫だ」 俺には聞き取れなかったが、マキタニさんが一緒にモニターを見ていた2人の男に何かを言うと、彼らはトレーを持って部屋を出て行った。彼らをちらりと見る。おそらく俺とほとんど歳は変わらなそうだ。20代後半。なんとなくライバル視をしてしまう。 トレーの上では、使用済みの注射器カランと音を立てていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!