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奥庭の、花のない花壇
道を歩いているだけで、感じる色も匂いも何もかもがいつもと違う。
四季のない国からやってきて一番感じるのは街路樹さえ色づいて、季節の移り変わりを目で見て感じることだ。数日の間に近くの森林公園は緑よりも黄の割合が増え、ところどころ赤く染まっていく。
——小さい頃見た絵葉書みたいに。
まだあのときはお母さんが生きていて、お父さんが送ってくれたという絵葉書を見せてくれた。
ふたりが愛し合って、ぼくが生まれて。
いまは、ひとり。
これまでもおじさんの仕事の都合で引っ越しをしている。今回はその合間の一時的な帰国にくっついて、ぼくも日本へやってきた。
今日は近所にある教会のバザー。
毎日おじさんは仕事に出かけてしまうけど、おじさんのお姉さんであるおばさまがずっと面倒をみてくれていた。
帰国してお世話になっているのはおじさんの実家で、丘の上に立っている大きな家だ。バザーはおばさまの参加しているボランティアがお店を出すというので来ている。
おじさんとの会話は日本語でも、世話人との会話や学校は英語なのでシンプルに日本語が下手だと思う。ただでさえもあまり話さないぼくが、余計に言葉を発しなくなる。
「名前は?」「何歳?」「どこからきたの?」……
みんな聞いてくることは同じだ。それに対して簡単にしか答えないせいで、とても無愛想に見えるらしい。ずっと前からにこにこできなくなったけれど、だれにでも陽気に接するおばさまの後ろに隠れていれば面倒なことも避けられる。
「ねえ、ココア飲む?」
ひとりの男の子が赤茶色に甘く匂う紙コップを手渡してくれる。
「ありがとう」
蚊の鳴くような声でお礼を言う。
「クッキーもあるんだ、一緒に食べよう」
男の子に強引に手を引かれて、花の咲いていない花壇のある庭の奥へ連れて行かれてしまう。
花壇の石垣に腰かけ、はい、どうぞとチョコチップの入ったクッキーを手渡された。ひとくちかじると、ぽろぽろと口の中でほどけて、お母さんがお休みの日に作ってくれたおやつを思い出し、自然と笑顔になった。
「あ……、笑うとかわいいんだね。もっと笑ったらいいのに」
男の子はくるっと丸い目を大きく開けて、こちらを見ていた。そんなこと言われたのは初めてだ。いつもまともに人の顔を見られないけれど、黒い瞳をじっと見つめてしまう。
「名前なんていうの?」
その子はぼくの口についたクッキーを払って指をぺろっと舐める。
どきどきして、変な気分。くちの中ではチョコチップが甘く残っている。目の前にはマリア様の石像。ぼくたちに背を向けて、こちらを見ていない。
「ユアンだよ」
咄嗟に出たのはいつも使っている英語名。男の子はそれを気にする様子はない。
「俺……シロップ……なんだって」
意地悪に吹き抜けた風に樹がざわめいて、名前は聞こえない。聞き返したかったけど、いえなかった。
男の子はそれからもたくさんお話をしてくれた。
おうちが遠くて、バスで来たこと。親戚のおうちに住んでること。ここへはお母さんの代わりに来たこと。
ぼくはただ頷いていたけれど、顔は笑っていたと思う。笑顔を見てほしかったから。
ぼくのことも少し聞かれた。どんなお菓子が好き、とか。どんなお勉強してるのとか。でもこちらが答えたくなさそうなことはひとつも聞かれなかった。
とっても嬉しかった。
こんなふうにできたらいいのにな。
あの大きな黒い瞳にまた会いたいと神様にお願いしたけど、それからは出会うことはなかった。
***
いまは誰と何を話したか、礼は思い出せない。
残っているのは舌の上で溶けたチョコチップのカケラ、背中を向けたマリア像。食べていないはずのメイプルの香り。
ココアがくれた、ひとときのぬくもり。
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