前夜屋

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 目の前の男が、ケホッと乾いた咳をした。咳まで遠慮がちに聞こえて、申し訳ないような気持になる。  咳が出るのは仕方がない。かび臭い、じめっとした陰鬱(いんうつ)な空気が、よどんでいるのだから。この地下室には窓も空調もないから、空気が動かないのだ。 「おい、休まず(ふく)らませろ」と僕のボスは情け容赦なく、男に言い放った。そればかりではなく、手に握っている銃を振って、早くしろと促す。男はおびえた顔で、ふたたび風船をくわえた。 「あの、喉が渇いたんじゃないですか? 水でも」  たまらず僕は、床にだらしなく転がっているビニール袋の中から、水のペットボトルを取り出した。 「ははっ! 末期(まつご)の水、ってやつだな。いいよ。喉をいためたら、風船を膨らませるのにも都合が悪いしな」とボスは言って、自分はビニール袋の中からビールの缶を取り出してプシュッと景気のいい音を立てた。 「ほら。今のうちに」と僕は男にささやいた。「こんなことしかできなくて、すみません」  男はホッとしたような顔で、僕を見て「いいんですよ」というように首を振ると、ペットボトルを受け取った。
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