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雨上がりの空の下、君と歩く
「これから散歩でもしません?」
そう春から連絡が来て、はじめて雨があがっていることに気がついた。夏休みが終わってもなお暑い日の続く9月のとある日曜日の昼過ぎ。朝目覚めるとざあざあと雨の降る音がして、それだけで憂鬱になったから午前中はずっとベットの上でうとうとしながら過ごしていた。もしかすると、春はそんなこともお見通しなのかもしれない。真っ青に晴れた空に架かる虹の写真まで送られてきていた。いつもグループでやりとりをするだけで、個人的にメッセージが来るのは初めてだ。しばらくスマホの画面をじっと見つめる。これは、個人的なお誘いということでいいのだろうか。一旦画面を閉じて、ベットの上に仰向けに横になった。鼓動がいつもよりうるさく感じられる。いつもグループではどんなテンションで返事をしていたっけ。春のメッセージは大抵短いから、なんとなく簡潔に答えなければというプレッシャーを感じる。うつ伏せに向き直って、肘をついた状態で再びスマホを開いた。
いいよ、どこで集合する?と入力して、送信。素っ気なさすぎただろうか。今朝はなんの身支度もしていないから、気にしている暇はない。慌てて支度を開始する。散歩に行くときってどんな格好をするのがいいのだろうか?散歩といっても一人でふらりと行くのとは違うのだ。わざわざ友達と待ち合わせて行く散歩とは、一体どんなテンションで臨めばいいのだろう。
水野春は高校の同級生だ。クラスは別々で、強いていうならば帰宅部の仲間だ。何せ共通点は部活に入っていない、というだけのことなので、知り合ったのは2年生になった今年のことだ。体育祭でチームを組むことになって、そこで初めて話をした。その名も帰宅部代表という。代表といってもうちの学年は部活への加入率が異様に高く、4人しか未加入者がいないので必然的に全員参加となった。参加するのは部活対抗リレーである。もちろん実際に帰宅部という部活があるわけではない。部活に入らず暇しているのだから、たまには運動でもしなさいという体育教師からのお達しにより結無理やり結成された。メンバーはというと、私、中井和朔(かずさ)と春のほかは木村裕太くんと宮下明梨ちゃんだ。木村くんは人懐っこい性格でなにかと話しかけてくれたし、明梨ちゃんは黙っているとクールで近寄りがたい感じもあるけれど、実は面倒見の良い姉御気質だ。春はというと、普段はあまり口数の多くないタイプだけれど、いざというときに頼りになるしっかり者だ。性格は違えどどこか大人びているところのある3人の前では、引っ込み思案な私もすぐに自然体でいられるようになった。
全員の共通点があるとすれば、帰宅部であることに誇りをもっていることだろう。強制的にリレーに出場させられたことよりも、体育の先生に暇呼ばわりされたことをみんなして気にしていることが分かって、そこから急速に打ち解けたように思う。そして我々は団結して(ムキになって)なんと3位入賞を果たしたのだった。
体育祭をきっかけに、本当に帰宅部があるかのように4人の距離は縮まっていた。時間が合う日は一緒に帰ったし、夏休みには何回か集まって遊んだりもした。部活で忙しくしている友達より予定を合わせやすいというのもあるが、ひとえに木村くんが明梨ちゃんのことを気に入っていることが大きかった。タイプの違う2人の恋路が気になるということもあり、木村くんの狙いを重々承知のうえで私と、恐らく春も、なんだかんだ他のメンバーのことを気に入っているからちょくちょく4人で集まるのだった。
半分くらいは悩むのが面倒になって、 結局お気に入りのワンピースを選んだ。そこまで外行きなものではないし、大丈夫だろう。ポシェットには財布とスマホとハンカチのみ。意識しないとあれもこれもと荷物を増やしてしまうけれど、今日は近所のお散歩なのだから心配ない。天気予報ではこのあとは終日晴れとのことだ。
待ち合わせ場所は私たち共通の最寄り駅だ。約束よりは少し早めの時間だが、既に春が待っていた。私の姿を認めてゆるり、と手を振っている。
「おはよう。嘘みたいにいい天気になったね」
「おはよー。ね。そんなに気温は高くないし、絶好の散歩日和かと」
おはよう、なんて時間ではないけれど、こんにちは、と言うのはなんだか気恥ずかしかった。ただ、実際に顔を合わせてしまえば、メッセージを見たときほどドキドキはしない。
「だね!どっちの方にいく?」
「海の方はどうでしょう」
「うん、いいね」
サクサクと話がまとまり、じゃあ、と歩きはじめる。やっぱり今日は2人だけのようだ。木村くんと明梨ちゃんは電車通学組で、ここからは30分ほどかかるところに住んでいるからわざわざ呼び出すのは憚られたのだろう。他の2人は?なんて聞かなくてよかった。これはデートと呼ばれるものになるのだろうか。ちら、とそんなことを思う。雨で洗い上げられたみたいに真っ青な空が眩しい。
「もうすぐ文化祭だね」
並んで歩いていると、いつもの学校からの帰り道のような感覚になってどんどん心が凪いでいく。
「そっちのクラスは、何やるんだっけ」
「ミュージカルだよ」
「ああ、すごく気合い入ってるって噂の」
「春のクラスは?」
「純喫茶」
「カフェじゃなく、純喫茶なの?」
「そうそう、由緒正しき喫茶店をやるよ」
「マスターが珈琲を淹れてくれるようなところ?」
「まさしく」
春が喫茶店のマスターよろしくエプロンをつけてコーヒーを淹れているところを想像する。爽やかな文化系男子といった雰囲気だから結構似合いそうではないか。
「メロンフロートとか、プリンとかある?」
「あるある。食べに来てよ」
「うわ〜いいな!絶対いく!」
「あとは、裕太のバンドにゲスト出演するよ」
「え!体育館のステージ発表に出るって言ってたやつ?春って楽器できるんだっけ?」
「体育館のやつ。どうしてもマラカスの人手がたりないからって頼まれた」
「何故にマラカス」
春がマラカスを手にステージに立つ姿は、さすがに想像できない。
「それは見てのお楽しみってことで」
木村くんは軽音部には所属せずに、同じ中学から進学したメンバーでバンドを組んでいるのだそうだ。まさか春までそこに参加しているとは。自分のクラスの出番と、純喫茶と、明梨ちゃんと木村くんのクラスも回って、ライブも観に行って、となると忙しい文化祭になりそうだ。
「和朔はこっちの道を通ったことある?」
春が指差したのは、国道から外れた細い路地だった。
「ううん。こっちからも海岸に出られるの?」
「うん。狭くて少しわかりにくいけど、冒険感があって楽しいよ」
「地元で通ったことのない道を歩くっていいね」
「でしょ。誘った甲斐があったってもんだ」
元気に育ち過ぎた庭の木が塀を越えて枝を張っている古い日本家屋を過ぎたと思えば、洋風な庭が美しい豪邸にどんな人が住んでいるのだろうと想像してみたり。初めての道は想像以上に楽しかった。そして、唐突に視界が開けた。海岸通りに出たのだ。
「わあ、この開放感がいいね」
雨上がりの海は、眩い光を浴びてキラキラと軽やかな輝きを放っていた。髪を揺らす風も潮風を含んだものに急に変わった。
「このタイミングで言うのもムードがないけど」
「なに?」
「おなかへった」
真剣な顔をしていきなり何かと思えば。
「何か買って、砂浜で食べる?」
「そうしよそうしよ。この通り沿いの、ベーグルがいいな」
こちらの提案に食い気味で反応をするものだから、余程お腹が空いていたのだろう。クスリ、と笑ってからふと不思議な気持ちになった。こんな風に気を遣わず、さくさくとやりとりができるようになるなんて。数ヶ月前までは話したこともなかったのに。体育祭自体はそんなに好きではないけれど、行事というものはやはりぐっと生徒同士の距離を縮めるものらしい。偉大な存在である。
海岸通り沿いにあるベーグル屋さんは、少し色あせた水色の屋根が可愛らしいこぢんまりとしたお店だ。好きなベーグルと具材を選んでサンドにしてくれるのが好評な、この街の人気店だ。春がどれにするか私よりも時間をかけて迷っていたのが意外だった。なんとなく、自分の好きなものがはっきりと決まっているタイプだと思っていたから。カフェメニューも豊富で、2人してテンションが上がってアイスカフェラテとおまけにデザートのプリンまで買い込んでしまった。袋を抱えていそいそと浜辺に降りていく。ピクニック気分でとても楽しい。
暑かったからとサンダルにしてきてよかったと思いながら、砂浜を歩いた。さらさらと足に触れる砂が気持ちいい。少し前を行く春もハーフパンツにサンダルで涼しげな軽装だ。この夏の間で私服姿も随分と見慣れたものになった。大きな波音に包まれると、地元であっても海に来たな、という感慨が湧いてくる。身近な存在ではあるのに来るたびにワクワクしてしまうのはなぜだろうか。高台にある学校の窓からも見えるから、毎日のように目にしているのに。やっぱり、砂浜に降りて波の音と風を感じると何度でも特別なことをしている気持ちになれる。
「よし、さっそくいただこう」
引率の先生かのように改まって宣言されたものだから、思わず吹き出してしまった。2人で並んで座って、いただきます、と手を合わせる。日差しを遮るものはないけれど、気持ちのいい風が吹いているからそこまで暑さは感じなかった。午前中の雨が少しだけ秋を連れてきてくれたのかもしれない。
「うん、おいしい」
「うまいねー」
返事はゆるゆるとしていてともすれば感情がこもっていないように聞こえるが、隣を伺うと春は楽しげに瞳を輝かせていた。不思議な人だ。普段は大人しく一歩後ろに控えているような、リーダータイプではなさそうに見える。けれども、こだわりのあることになるとあれこれと仕切りたくなるらしいということを、体育祭のときに知った。最初は木村くんが作戦をたててくれていたけれど、どこかで熱中スイッチが入ったらしく最後は春が練習を取り仕切っていた。それで入賞まで漕ぎ着けてしまうのだからすごい人である。でも、こうやって寛いでいるときは熱血なところがあるようには思えないくらい静かだ。言葉数は少ない。その代わりに、目に感情が表れるのだ。再びちら、と横を伺って柔らかい表情をしているのを確認した。楽しんでるんだなと分かってホッとする。いつもは木村くんや明莉ちゃんが会話の中心にいるから、4人のときに比べてぐっと静かな雰囲気だ。わたしは面白い話なんてできないから、退屈なのではないかとつい心配になってしまう。
「で、和朔は何の役をやるの?」
聞き逃してしまいそうなくらい唐突に、春は文化祭の話を再開した。この独特のペースにもすっかり驚かなくってしまっていることに喜びを感じている自分がいる。
「えっとね、役というか、ピアノで伴奏をするよ」
「それはすごいね。そうか、レッスンに通ってるんだっけ」
「その通りだけど、話したっけ?」
「たしか裕太に聞いた」
「なるほどそういうことね!」
そう、これがわたしが部活に入らない最たる理由だ。確か明莉ちゃんに話したことはあったからそれで木村くんにも伝わったのだろう。あのふたりは本当に仲が良い。
「BGMが生演奏って超豪華じゃん。楽しみだなぁ」
「ありがと。明莉ちゃんと木村くんのクラスも回らなきゃだし忙しくなりそうだね」
「だね。ちゃんと計画立てよう。俺、それに合わせて純喫茶のシフト申請するわ」
「なんかバイトみたいだね」
「これまた帰宅部の風評被害で暇だと思われてるからさ、黙ってるとずっと働かされかねない」
「それもそうかも」
目があって笑い合う。
「部活に入らない選択をしてよかったって思ってきたけど、今年は仲間ができたから本当に楽しいな」
「ねー、分かる。より充実感があるね」
じんわりと心が温かくなるのを感じた。春とふたりで話をして、「そうだよね」と共感しあえる。少し前までは考えてもみなかったことが現実になっている。この時間が急に愛しく思えてきた。4人であれこれくだらない話で延々と盛り上がったりするのも楽しいのだけれど、ふたりで居るのも素敵だなと思う気持ちが少しずつ積み重なっていた。これまでも度々こっそりと隣に視線をやって、春の表情を確認してきた。その度に春がふたりの静かな時間を楽しんでくれていると分かってきたから。例えば、学校からの帰り道。木村くんと明莉ちゃんを駅で見送ったあと、道が分かれるまでの少しの間、会話の合間のふとした瞬間にこうして春とお互いに繋がりを確かめるように視線が交わるときがあった。どこかでこの繋がりは高校生の今だけだということが分かっているから、かけがえのないものだと感じるのかもしれない。帰宅部の仲間だから、放課後一緒に帰っているとか、暇な休日に散歩に出掛けている、とか。今ならそう説明できるけれど、理由がなくなったらどうだろうか。別々の大学へ進んで、どんどん道は別れていく。せっかく仲良くなれたのだ。できればずっと長く繋がっていたいけれど、自分自身でさえいつまでそう思っていられるのか分からない。ずっと一緒にいたい、なんて簡単に言葉にすることはできそうにない。春や明莉ちゃん、木村くんが誠実な人たちだから、私も大事なことは心からそう思えると自信を持って言葉を選んで伝えたいのだ。考えすぎかもしれないけれど、近頃はそんなことを思って、気持ちを言葉にするのは難しいなと感じることが多い。
春はベーグルが入っていた紙袋を平らに畳むと、それを枕にごろんと寝そべった。気ままな猫のようでいいなと思う。紙袋はもう一枚あるけれど、わたしの髪の長さだとどうやっても砂が付いてしまうだろう。
「ちゃんとしたシートを持ってくればよかったね」
羨ましく思ったのがバレたのだろうか、春がのんびりと言った。
「ねえ、中学で星空教室ってあった?」
「そんな楽しそうな行事は無かったかな」
砂浜に寝転がる春を見ていたら、中学のときの課外授業を思い出した。流星群の日の夜、砂浜で天体観測をするというものだ。夜に友達と集まることの方にドキドキしたものだが、いざ観測が始まると、見上げる先で繰り広げられる天体ショーにみんなして釘付けになった。
「こうやって砂浜に座ったり、寝転がったりして、夢中で眺めてたなあって」
「いいなー。それ、やってみたい」
「でしょ。結構いい思い出になってるよ」
「流星群ってちょっと恐ろしいなって思うけどそれが綺麗なんだよな」
「あ、それ分かるなー。たまに強く光るのがあったりすると、隕石が落ちてくるんじゃないか、みたいに思ったり」
「そうそう。世紀末感があるっていうか。映画の見過ぎかね」
「ふふ、そうなのかもね」
遮るものは何もなく、はるか彼方からやってくる風が耳元でごうごうと音を立てて存在を主張する。星空教室の日もこんな風に海風が吹いていただろうか。あんなに楽しかったはずなのに既に遠い記憶になってしまった。
「今のことも、後になってからかけがえのない時間だったなって、もう手が届かないんだって、思うのかな。とても幸せなんだって分かってるつもりなんだけど、きっとどうしようもないんだよね」
「んーどうだろうね」
ふと口にしてしまってから、あまりに唐突であったことに気づいた。どうやってフォローしようかと焦っていたけれど、春は至って通常運転だった。笑ったり、訝しんだりすることはなく、しばし考えたのち、いつも通りゆったりと話し始めた。
「手が届かないと思うとより美しく見えるのは事実なんだろうけど。今みたいな時間が続けばいいのにって、たった今和朔も俺もそう思ってるってことが紛れもない事実なんだったら、俺は今感じてる確かさを捕まえておこうとするかな」
捕まえる、とはまた思ってもみなかった考え方だなと感心する。物理的には不可能と分かっていても、その表現の力強さには心惹かれるものがある。
「ちゃんと捕まえておける?」
「和朔が捕まえててほしいっていうなら」
「そういうの、ずるいっていうんじゃないかなあ」
口ではそう言いつつも、春がそう言うのならと安心し始めていた。
「ごめんね、急に変なこと言って」
「別に、いいんじゃない。これも青春ってことにしておけば」
春は起き上がってニッと笑うと私の手からスプーンを奪い、もう片方の手に持っていたプリンをひとくち掬った。
「ん、キャラメル味もいいね」
「ちょっとー、こういうときだけ素早いのもずるいよ」
「ごめんごめん」
春の笑顔と、太陽の光を受けて輝く海面と。ゆったりと流れる休日の時間はどこか現実味がないように思えてくる。海から時折吹く風が運んでくる湿度と潮の香りが現実の手触りを思い出させてくれる。この感触を覚えておこう。きっと、今日のことはこの潮風の感触と共に記憶されるだろう。この感触を捕まえておけば、今この時間を永遠にできると信じて。
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