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夕暮れ時の空の下、冬の海で
2学期の終業式の今日は、世間的にはクリスマスイブだ。街を歩く人々は、寒さに身を屈めながらもこの後の予定を思ってか、どこか活気のある様子だ。
すっかり馴染みの”帰宅部”メンバーと一緒にクリスマスランチをしようということになって、学校近くのカフェに行ってきたところだった。4人はいまや本当の部活の仲間のようにしょっちゅう一緒に行動するようになっていた。
駅で木村君と明莉ちゃんを見送って、今は地元組の春と2人歩いて帰っている。
「あのカフェ、密かに気になってたから行けて良かったなぁ。ご飯も美味しかったし。さすが明莉ちゃん」
「気になってたのにそれを言わないのが和朔らしいよな」
「話すきっかけがなかったというか」
「俺らの会話って6、7割裕太が喋ってるもんな」
「言われてみればそうだね」
本当に言われてみれば、だった。4人でいるときの会話のテンポが、自分にとってはあまりにも自然に馴染んでいるものだから、誰が沢山話しているだのということは気にかけていなかったのだ。
「和朔の話を聞きたいときは、個人的に誘わなきゃいけないわけだ」
「えー、そんなこともないけど」
「ということで、どう?冬の散歩」
「なに、今の話だったの?」
「そうです」
「いい、けど」
このまま家に帰るものだと思っていたから、ちょっとドキドキしてしまうではないか。でも、楽しい時間が名残惜しいのも事実で。
「じゃ、いきましょう」
春はいつだって自然体に見えていいなあと思う。クリスマスイブに誘うことさえ何の意味もないのだというそぶりである。私はこうした瞬間、毎回凝りもせずにその自然さに心を打たれるのだ。感動とも絶望ともつかない、心が揺れ動く感覚。揺らぎを落ち着かせるために少し待ってから会話を続ける。
「あの日みたいに、海岸に行きたいな」
「さてはまた買い食いする気でしょう」
春がニヤリ、とこちらを振り返った。
「ベーグル屋さん、冬はホットココア
が出るんだよ。春って意外に限定モノに弱いでしょう。だから、折角ならと思って」
こちらも負けじとニヤリと視線を返す。
「う、なんでそれを知ってるの」
「見てればわかるって!メニューに季節の、ってついてるの選びがちじゃん」
「うむ、、その通りだな。では、この間と同じルートで」
2度目のルートだけれど、初夏の日中と真冬の夕方とでは当然ながら街の雰囲気は違っている。オレンジ色から群青色へと緻密なグラデーションを描く空は冷たい空気を通して見るからかクリアに、どこまでも広がっていくようだ。
「今こうやって寒い世界にいると、暑くて仕方がなかった夏が夢だったみたいに感じるね」
「わかるわかる。今サンダルで歩けって言われたら、なんてことを言うんだって怒るわ」
「うー、考えただけで寒いね」
歩いていても冷たい風が吹く度に震えてしまう。着込んでモコモコとした腕と腕がぶつかる。コートのふわふわとした感触はぬいぐるみのようで、寒さのせいでいつもより距離が近くても緊張することはなかった。側から見ればよく一緒に行動するのに何を今更緊張だなんて、と思われるだろう。でも、私にとって春は一緒にいて心地よいのと同じくらい緊張を強いられる存在なのだ。周囲の時の流れと一本逸れた道を歩いているような、泰然とした雰囲気のためだろうか。
春の頭脳は、今何を考えているのだろう。春の視線は、世界をどういう風に捉えているのだろう。よく私の頭はこんな疑問に支配される。正直に言ってしまうと、私は春を構成する要素一つ一つにとても強い興味を抱いていた。「あなたのことをもっとよく知りたいの」というよくドラマなどで耳にするセリフで言いあらわせるような関心ではない。
春はこんなとき、どんな風に考えるのだろう。この景色を見たらどんなことを話すだろう。興味は尽きることなく溢れてくる。
「あんな風にあったかそうな光が見えるの、冬のオアシスって感じだな」
「そうだね。海風は一段と冷たいねえ。違うコースが良かったかな」
「いや、もう冬限定ココア飲まずには帰れないよ」
「すっかりココアの気分になってるね」
ベーグル屋さんが見えてくると、どちらともなく歩くペースがあがった。ここまで歩いてきて冷えた体に、温かいココアは一段と美味しく感じられることだろう。
「あったまるねえ」
念願のココアを手に、海を見下ろせる公園へやってきた。陽はすっかり落ちて空では星々が輝きを増し始めている。
「これは美味しいね。今年イチ美味しい飲み物かも」
「外で飲んでるからっていうのもあるかもね」
「クリスマスイブだしね」
今日一日表面的にはいつも通りだったけれど、春もクリスマスを楽しんでいたのだろうか。
「海しかないからあんまりクリスマスっぽくはないかもだけど」
ついつい、はぐらかすようなことを言ってしまう。イブの今日、今この瞬間に、春と2人でいることにこそばゆい感じがしたのだ。
「ちょっと、あっちに行こうか」
春は立ち上がると、より海に近い公園の奥に向かって歩き始めた。唐突な提案に慌てて後を追う。街灯に照らされたベンチを離れると、辺りはすっかり暗くなっていた。冬の海の夜はしっとりと、そして凜としている。
「ほら、ここからだとよく見える」
フェンス越しには海、そして春が指し示した空の上に目をやると、一面の星々が宝石のような、儚いけれど確かな輝きを放っていた。
「きれい」
感想を伝えるための素敵な言葉たちは、ため息と一緒に海の彼方へと飛ばされていってしまった。残ったのはシンプルな一言だけ。
「イルミネーションほど華やかでもないけど」
春の声は夜の空気に紛れてしまいそうなくらいさり気ない。
「こっちの方がずっと価値のある景色なんじゃないかなあ。いつでも見られるわけじゃないし」
私はこの時間を捕まえておきたいと願いを込めて精一杯に答える。
「うん。今日、和朔とみられて良かった」
やはり、さらりと放たれた言葉に息を呑む。
「そ、そんな嬉しいこと言ってくれるの?」
「クリスマスイブだから特別、ってことで。散歩に誘ったときはここまで考えてなかったけど、今日の目的はこの景色だったんだなって今思ったからさ」
「私も、春と一緒にこの景色を見られてよかった」
「うん。素直でよろしい」
暗くてはっきりとは見えないけれど、春がふわりと微笑んだ気配がした。
どうしてそんなにスマートに私の手の位置が分かったのだろうか、春は私の左手を取り、手のひらを上にするとその上に何か包みを置いた。
「えっ、なになに?」
「ささやかながらクリスマスプレゼントです」
「わあ、ありがとう!
そしてごめん。私気のまわらないやつで、何も用意してなくて...」
「いやいや、俺が勝手に用意しただけだし。気にせずもらってくれるとありがたい」
「春、ありがとう」
「メリークリスマス!和朔」
「ふふ、メリークリスマス」
春は照れ臭い空気から逃げ出すようにそそくさと来た道を戻り始めた。このそっけない感じの方が春らしくて安心してしまう自分が可笑しい。
どうやらお菓子が入っているような小さな包みを、大事に持って後に続く。春からのクリスマスプレゼントは、猫の形のクッキーだった。小ぶりな魚を型どったものも入っていてとても可愛らしい。
「ねえ、春。ありがとうね。すっごくかわいいね」
「はやく鞄に仕舞えばいいのに、いつまで手に持ってるの」
「だって、割れちゃったら嫌なんだもん」
「俺がここまで持ってきて無事だったんだから大丈夫だよ」
「うん、まあそうなのかもしれないけど」
すっかりココアも飲み干して、海風で体は冷え切っている。けれども、2人のどちらともが歩くペースを早めることはなかった。先程の反動なのか、いつも以上につれない態度の春ではあるけれど、もう少しだけこの時間が続くことを私と同じように望んでくれていたりしたら、嬉しい。
「そのクッキー、昼の店で買ったんだ」
「え、そうだったんだ!」
「いくつか種類があったから、また見に行ったらいいんじゃない?」
「春も一緒に?」
「まあ、いいけど」
またひとつ、冷たい風が吹いて身を竦めた私たちの腕が触れた。たまに触れる腕のこの距離よりももう少しだけ、心の距離は近くなっているのかな、と思う。
冬の散歩も素敵なものである。
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