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第1話 ずっとお前
窓から外の景色を眺める度に思う、オレのご先祖様は見る目があったなと。
王都から程よく離れた小高い丘にある我が屋敷は、世情の喧騒など届かない。それどころか、鳥のさえずりやら季節の虫の合唱やら、耳に心地良い音に溢れている。辺りには手つかずの森と平原があるばかり。そのおかげか庭も広々としたもんだ。当然、薬草を栽培するのに絶好の環境だと言える。
顔も知らない祖父から母が譲り受け、そしてオレに引き継がれた古屋敷。天井のシミに床の軋みとあちこちでガタが来ているものの、まだまだ住める。大事に使えば問題ないレベルだ。
(もう沸いたかな)
火鉱石で灯した炎が消えた。ポットからは十分なほどの蒸気が溢れ出ている。頃合いだ。
湯を木椀に注いで魔茶を溶かすと、大した手間も無く粉末が消えた。この茶葉は自家製で、最高級品にも劣らぬクオリティだと信じている。やはり手間暇かけた分だけ美味いと言うか愛おしいと言うか。
(去年よりずっと良い出来だ。今年は天候に恵まれたからな)
いきなり口を付けるような真似はしない。勿体振るように鼻の傍でカップを揺らし、濃厚な香りを味わう。それと同時に、薄緑色の小波から舌先に渋みを想起させ、微かな唾液を呼び起こす。五感の全てで受け入れ態勢が整ったのを確信してから、ようやく縁に口をつけた。
金は無くとも贅沢は出来る。それはオレの持論なんだが、今こそ真骨頂の瞬間だ。
「いただきます」
存分に味わおうとした瞬間、唐突に駆け足の音が鳴り響き、ドアもけたたましく開かれた。
「師匠! 朗報ですよローホー!」
「ゲホッゴホッ!」
「あら、風邪でもひいたんです? ダメでしょう、薬師が不養生だなんて。評判に響きますよ」
「お前が驚かすからだろうが!」
現れたのは、弟子を自称して居座るアイシャだ。短めで白銀の髪はフワリとした丸みがあり、大きな瞳と豊かなまつ毛はやたら男の眼を惹くらしい。他にも胸が大きいだの、手足も細長いだとかで、世間では絶世の美女と持てはやされているそうだ。
まぁそんな女であっても、夏冬問わず半袖のブラウスとハーフパンツ姿であるのが台無しというか。色気を感じた事は一度として無い。
いや、そんな事よりも今は説教を優先すべきか。
「アイシャ、いつも言ってんだろ! 廊下を走んな、ドアはノックしろ!」
「ああ、分かってますよ。今はそれよりも……」
「分かってないから注意されてんだろ! だいたいお前はいつもいつも――」
とりあえず思いつく限りの説教を並べた。廊下を走らない、無闇に大声を出さない、部屋に入る前にノックしろ。子供でも分かる事を二十歳(おとな)に指導するってんだから、怒りよりも哀しみの方が強かった。
そうしてオレのターンが終わった頃、やっと要件を尋ねる気分になる。お預けになった茶も飲み進める事に。
「それで、何をそんなに慌てたんだよ」
「お客さんです。依頼があるからって」
「ゲホッゲホ!」
「やっぱ風邪ひいてんじゃないですか、薬持ってきます?」
「お前、それ早く言えよ! ボヤボヤしてたら帰っちまうだろが!」
いやマジで早く言って欲しかった。何を差し置いてでも。
「師匠がお説教を優先させたからじゃないですかぁ」
ムカつくが、ごもっとも。
「あぁ、そんな事より早く応対しないと!」
とにかく急がなくては。椅子に引っ掛けた上着を羽織る。こちとらボタンを止めるゆとりすら無いのに、お弟子さんとやらはボヤ〜〜っとするばかりだ。こんな瞬間に指示待ちスタイルは勘弁してくれ。
「アイシャ、お前は茶の用意をしておけ」
「魔茶は朝にお出しした分で品切れです!」
「マジかよ、だったらアレだ。冷水にレモン絞って砂糖も軽く……」
「レモンなんて、ここしばらく見てません。そして砂糖は昨晩のご飯代わりに全部平らげてます、サー!」
やべぇ。地味にピンチなんじゃないか、この品薄加減。
「んんん……だったら氷水だ。作り方は分かるな?」
「了解です、サー!」
「オレは一足先に応接室に行くからな、頼んだぞ!」
その言葉を最後に部屋を飛び出した。極力無駄な音は立てないよう、しかし足早に。そして応接室の前で一度深呼吸してから、ドアを開けた。
「お待たせ致しました、当院長のイアクシルと申しま……」
中はもぬけの殻だった。窓の外に眼をやれば、肩を怒らせながら遠ざかる人の姿が見える。追いかければ間に合う距離だ。しかし心理的に手遅れだろう。小さくなる背中を眺めるうちに、受け入れがたい現実を腹に落とし込んでいった。
久々の客に逃げられたのだ、と。
「師匠、お待たせしました!」
「いてぇ!」
勢い良く開け放ったドアからアイシャが飛び込んできた。オレは顔面強打。被害は鼻血、あとヌルリとした怒り。
「すんませんね。ちょいーーとばかし失敗しちゃったけど、多分ダイジョーブです。人体には影響ないっぽいんで!」
そんな口上と共に披露された氷水は、見た目がともかく異様だった。木のコップの側面に、やたらと霜が付いているのは些細な事。縁からは白く重たそうな煙がモウモウと立ち込め、それは不条理にも天井を目指さず、床を這うようにして降りていく。
明らかな調合ミスだ。自信満々だったくせに、作り方を完全に間違えてやがる。これはむしろ客に逃げられて幸運だったかもしれない。怪しげな飲物を出す薬師だと噂されずに済んだのだから。
「あれ、お客様は?」
「もう帰った」
意外にも血の量が多くて、鼻をつまんでも指先が濡れた。それを見た実行犯(アイシャ)がトレイを投げ出して駆け寄ってきやがる。
「うわぁ、おびただしい鼻血じゃないですか! やっぱり風邪をひいて……」
「お前のせいなんだよ、さっきからずっと!」
そう、ずっとだ。いつからとは覚えてないが、一年近くはこんなやり取りが繰り返されている。
これが世間では天才薬師と呼ばれるオレと、その美人助手、妙に評判だけは良いアイシャとの日常なのだ。
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