鬼ヶ島の物語は、ある意味で映画のようなものです。

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鬼ヶ島の物語は、ある意味で映画のようなものです。

【月刊映画の友】 創刊六十祈念特大号によせて 権田原歳造(時代小説家) まずは六十周年と記念映画『鬼餓島』の完成をお慶び申し上げます。 鬼ヶ島の物語は、ある意味で映画のようなものです。一つの映画の中で語られる物語の、作られつつある世界の物語である。しかし、一本の映画で語るということは、一本の映画を観るということではないのです。 鬼ヶ島は物語なのです。これは私たちがそれを伝える方法です。それをどうやって世界で見るかということです。誰が考案したのかはわからないが、絶対に『私』ではない。この物語は、まだ形作られていない時代の『誰か』の物語である。 それは、語られなければならない物語です。時代の文脈の中で語られなければならないのです。しかし同時に、それは物語でもあります。それは、人々が理解しやすい方法で語られる物語であり、日本人にとって理解しやすい方法で語られる物語なのです。これを英語で書くのはとても難しいし、日本以外の国でこの物語を見るのはとても難しいです。 少なくとも正しく語れる立ち位置があるとすれば、エッセイストではなく、映画評論家の言葉であることは間違いないだろう。そして、こんなことも。 この物語は、理解するのは簡単だが、見るのは難しい。この物語を見るのは、とてもとても難しい。 ●映画を観るでなく、視る、診る、看る。この文章で再作成する この物語を理解するには、「話の構造」を理解することが絶対に必要です。物語を見るのは、簡単でも、しかし、理解する時は難しい。また、こういった物語には、「話の構造」というものがないはずはない。それは、物語の中で作られていくことでした。つまり、これは物語の構成に関係するものであり、また、物語の構造に関係するものではありません。つまり、私が言いたいのは「作品の構造ってわかるか?」ということです。この小説は、物語を構成することの中に見つかる「物語の構造」を理解することで成立する小説なのです。そして、この小説ではない物語と、それを理解すること自体が不可能な物語も存在します。しかし、これは小説ではありません。ですから、このようなときには、これが物語だ、と言いたくなります。 ●鬼餓島という日本の構造モデル 映画の前半は、日本の小さな漁村の実家に住む青年・夏美に焦点が当てられている。漁師である父親は、夏海を連れてよく鬼ヶ島に出稼ぎに行く。彼は学校の先生でもある。母親の小町は小さな工場で働いていて、夏海を連れてよく鬼ヶ島に行く。彼女もまた、学校の教師である。夫の小野は公共交通機関で働いており、学校の先生でもある。妹のユキは、大阪の大企業で事務職をしている。姉の由紀さんは、大阪市内の大企業でOLをしており、学校の先生もしている。他の子供たちも、学校の先生や労働者として働いている。末っ子の楓は、鬼ヶ島の小さなアパートで両親と暮らしている少女だ。楓は勉強が得意である。世帯の年長者は全員、学校の先生をしている。長男も末っ子も学校の先生である。その下の兄弟も学校の先生です。 世代の違う老若男女問わず『教師』というコンテクストが付与されている点に注目。これは少子化による平均年齢の上昇が五十歳という閾値に近づきつつある日本の介護問題を象徴しています。高度成長時代に共働き世帯の育児や教育は高齢者が担っていました。ところが医学が飛躍的に向上し人生百年時代に突入すると全世帯型の社会保障制度が必要になります。聞こえはいいですが若年人口が減りある程度人生経験を積んだ中高年層が増えた。反面、老骨に鞭打ちながら働いたり互いに介護したり個人の負担も増えた。重い責任を平等に分担するために誰もが『大人であること』すなわち教師であらねばならない。 その結果として失われるものは幼さ、素朴さといったピュアな部分です。 島に棲む鬼たちにそのような清らかさはなく、あるのは老後資産《おたから 》ばかり。これが序章の物語構造といえます。 ● 物語構造の二 その後、映画はメインの鬼ヶ島に移動します。この映画は、鬼ヶ島に住む人々が、自分の人生の意味を模索するという内容である。 その意味で寓話的要素が加わり前半とはゆるいパラレルワールド的な連続がある。 島の中心部には、夏美の父親が働く小さな漁師小屋がある。夏美の兄・小野も一緒に暮らしている。夜の鬼ヶ島は、森に覆われた大きな島である。森の端には大きな鬼ヶ島川が流れている。夏美のもう一人の兄、楓は父親と一緒に暮らしている。楓の息子の勇輝も一緒に暮らしている。妹のユキは、大阪の大企業でOLをしている。また、学校の先生でもある。末っ子の楓は、お父さんの小さな別荘に住んでいる。母親の小町は工場で働いている。父親の小野は学校の先生で、朝6時から夜9時まで働いている。家は湖の近くにある。 中盤の主題は勤労です。キーポイントは「企業」あるいは「管理」 全世代が何らかの組織に属し規則正しいルールに従っている。これが何を意味するかは一目瞭然です。高度成長社会の脱構築に失敗した残骸なのですね。童話の鬼ヶ島は厳しい階級制の軍事独裁国家です。社会が高齢化すると硬直し柔軟性を養う余裕は構成員の維持に振り向けられます。自由で豊かなスローライフといった牧歌性は吹き飛び解放的とはいえない世界で閉じた暮しを強いられる。高齢化社会は鬼ヶ島化して尊厳を保とうとする。 ここでもう一つキーとなるコンテクストがあります。 家の近くの湖。水産資源が枯渇した時に地域経済は滅びる。そのため遠洋漁業という収奪や外部からの援助――この場合は妹のユキの介護離職が象徴になるかもしれません。 カプセル化された日本の西暦2040年代。それが鬼ヶ島なのです。 島の残りの部分は小さな漁村である。他の村人たちは、地元の小さな工場で働いている。その中には若い女性もいて、工場で働いているという。一番年上の子供、楓は家族と一緒に暮らしている。 さて、ここでカメラクレーンがぐーっと引いていき観客の目線が虚構から強制的に剥離します。 観客が唖然とするなかカメラ視点はお構いなしに移動する。 スタジオセット中央に置かれた一隻の船。 これがワンカットのノーナレーションで説明されます。 "鬼ヶ島 "とは、日本の伝統的な屋形船のことです。この屋形船は、タグボートで簡単に運ぶことができるフローティングハウスです。この屋形船には、中央の小さなデッキエリアと船尾の大きなデッキエリアがあります。小さなデッキエリアは、家族のリビングエリアがあります。船尾のデッキは収納スペースで、たまに遠出をするときに使用します。ハウスボートの室内には、最大で30人まで収容することができます。ハウスボートは機動性にも優れています。釣行などの長期旅行にも対応できるように設計されています。屋形船は約3階建てです。前方のデッキは寝たり、食べたり、洗ったりする場所です。後ろのデッキは寝る場所で、家族の調理器具を収納しています。前のデッキと後ろのデッキは収納としても使えます。上のデッキは、キッチンがある場所です。下のデッキは、お風呂や洗濯をする場所です。裏側のデッキは、通常は物置や洗濯室として使われますが、大きなダイニングルームとしても使われます。 最後にいぶし銀のナレーター(元NHKアナウンサーの桧垣新次郎)が締めます。 「"鬼ヶ島 "は、日本の伝統的な屋形船です。この屋形船は、日本の伝統的な屋形船です」 ここでスタッフロールもエンディングテーマもなく唐突に暗転するのですが、 銀幕が明るくなった後の鳴りやまない拍手と驚嘆と激しい賛否両論は試写会から一夜明けた今でも私の耳に残っています。 屋形船の解釈についてはさまざまな文献がありますので省きます。ただ「鬼餓島」は月刊映画の友が創刊以来途切れることなく唱えてきた構造美を見事に映像化したものであるといえましょう。 鬼ヶ島はDXや機械化の進んだ日本の未来像だとか、火星などの開拓移住を象徴しているのだとかステロタイプな解釈を毛頭否定するつもりはありません。 一つ言えることは島国根性とか日本の矮小さとかそういった偏狭な「古い」視点でなく、まとまって完成した構造論を提示することで、井の中の蛙が進むべき大海を魅せてくれた。それが鬼蛾島なのです。
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