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「今朝連絡が回ったと思うけど、新居が発熱して休んでます。検査結果は午後に――」  今朝のメールを見ていなかったであろう生徒たちの声で教室がざわついている。「え、まじで」「咲、お見舞いに行ってきなよ」喧騒に私たちふたりぶんの声が加わる。先生が言葉を放つたび、意識、というより魂みたいなものが数センチずつ沈んでいく。朝のホームルームが終わって教室に騒がしさが戻ってきたとき、抜け落ちた私の魂はようやく本来あるべき場所へ戻ってきた。  一時間目は数学だった。教室は一階の共通講義室だから、蛍の準備を待って、それから一緒に階段を降った。  私がようやく誘おうと決心して、どういう言葉をかけようかと寝る前に思考実験を繰り返してみても、私に待っているのはやっぱり私の期待する結末ではない。二週間後にはこの覚悟もどうせ消えてなくなっているだろうから、やっぱりこういう努力をすることに関して不毛であると私は言いたい。  ものごとに期待しすぎている。だからすぐに絶望して、こころの重さに悩まされる。幸せの閾値が高く設定されているのかもしれない。この中途半端さが私そのものだと思った。  花火大会、中止になったらしいね。蛍がそっと言う。うん、そうだねー。返事をする。憂鬱に浸っている自分は早くそこから抜けだしたいと思っているけど、それは本当に私の求めていることなのかな、なんて考えてみる。 「メッセージでも送ってやったらいいじゃん。新居に」  これが倒置法です。秒速数メートルで進む足元に、古典の先生の言葉と私の憂鬱が転がっている。「えー、無理無理」笑いながら答える。 「自分から動かないと始まらんよ」  胸の内側で笑いを堪えるみたいに蛍が言う。うるさいわ。わざとむすっとした表情をしてやる。蛍から笑いが零れる。  コサインを求めるにはー。無理なんて言いつつも、先生の言葉の隙間でどんなメッセージを送ろうか想像に花を咲かせてみる。自分から動かないと始まらない。そのとおりだと思う。受け身になっている。私はたしかに、物事の結末を変えるということから目を背けている。  不幸みたいなものに浸っているあいだはこころの正確な重さを忘れられる。そうすることでこれは仕方がないことだと自分のなかで言い訳をつけている。だから、こうやって結末を変えるということがこれほど重たいことだと気づかなかった。  先生が黒板のほうを向くのと同時に、私はワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取りだした。チャットアプリを起動し、彼のアカウントを呼びだす。トーク画面、私と彼が過去に送信した吹きだしたちがヒビの入った画面を滑走している。私が最後に送信したスタンプがこちらを見て笑っている。 『体調はどう?』  画面の上下左右に指を滑らせる。ふう、肺のなかを空っぽにするみたいに息を吐きだしたあと、送信ボタンに親指を乗せた。それから今度は太股のあいだに携帯を挟み込む。先生がまだ黒板にチョークを滑らせているのを見て、ふう、またひそかに息を吐く。それから黒板に書かれているのがテストに出る問題だと気づき、慌ててペンを握りなおした。  練習問題を解いているとき、太股の内側が静かに震動した。視線を落とすと画面に表示された送信主には新居くんの名前があって、『ちょっと熱が出たくらい。大丈夫だよ』、口角に働く上向きの力をマスクのなかでぐっと抑える。 『お大事にね』 『ん。咲も気をつけてね』  咲。彼に呼ばれた名前を、指でノートに書いてみる。ふわり、花が咲いたような気分になる。
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