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 新居くんが学校に戻ってきたのは、それから二週間が経ったころだった。特別変わったところはなかったけど、画面の向こう側でしか彼を感じていなかったから、彼を数年ぶりに見たような気分だった。よかったねー。蛍が菩薩のような笑顔で言うから、そうですねー、わざとぶっきらぼうに返す。  いざ目の前にすると遠距離用のやりとりでは満足できなくなるから不思議だ。彼を誘うというのはべつに花火大会じゃなくてもよくて、とにかく新居くんと二人で出かけることができれば私はそれでいい。でもやっぱり花火大会に行くという機会がなくなることはかなしかった。なくなったものを悔やんでも仕方がないなんて言う人がいるけど、なくなったものを悔やむという行為そのものが生む憂鬱に身体を漬けてみる必要があると思う。 「ねえ、アレ持ってない? きちゃった。まだ先だったはずなのになあ」  蛍がひそひそ声でそう言うから、私は捲っていたワイシャツの袖を伸ばし、それからバッグを探る。引き当てたものを袖のなかに隠して、それから同じく袖を伸ばしている蛍に手渡した。「さんきゅ」「ん」、闇取引をしているみたいで、実はこの瞬間が好きだったりする。  ふたりでトイレへ向かうとちゅうにはやっぱり、教室の出口付近でたまっている男子のなかに新居くんの姿があった。「げんき?」口だけを動かしてそう呟いてみる。「げんき」と返ってくる。 「だから話しかければいいのに」 「いいのいいの」 「今日こそ一緒に帰ろって誘ってみなよ。もうすぐで夏休みになっちゃうよ」  無理無理。私がそう言うと蛍は教室のほうへ戻ろうとするから、慌てて彼女の腕を引っ張った。 「じぶんで話しかけるからっ」  ほんとかなー。蛍が目を細めてこちらを見る。もわり、暑苦しい空気が袖の内側に入り込んでくる。マスクを下げる。先生にマスクしろーと言われる。はーい、間の抜けた返事をする。  私にばかり不幸が集まって、結末が悪い方向へ傾いている。でも、このまま誰かが決めた結末に流されているだけでは、もう二度とハッピーエンドを見つけることができなくなってしまうような気がした。私はじぶんを待つ結末を変えるため、勇気を振り絞って新居くんの帰りを待つことにした。六つぶんの授業が終わって、それからソーシャルディスタンスを謳ったつまらない部活動を終えると、蛍から『がんばれー』とメッセージが送られてきた。 『無理、死ぬ死ぬ』 『人間はそんな簡単に死なんよ』  昇降口でスマートフォンとにらめっこをしていると、じぶんがこうして恋愛における一歩を踏みだしたことが現実でないような気がしてきた。ひとり、またひとりとクラスメイトが横を通り過ぎていって、その拍子に胃が膨張していく。このままクラスメイト全員とすれ違っていては、昼食のトマトが口から出てきてしまうかもしれない。じゃあねー。またねー。そういう私の声が震えていたことに気づいたクラスメイトは一体どれくらいいるだろう。  がたん。また後ろで下駄箱の開く音がする。導かれるみたいに振り返ると、「あ」、そこには私に気づいた様子の新居くんがいた。わあ、奇遇だねー。そう言おうとしていた喉が固まっている。 「いま、あの、たまたま」  ぐうっと顔の温度が上昇し、それから背中とキャミソールの間を生暖かい空気が通り抜けていく。明らかに不自然な言葉たちが勝手に口から飛びだしていって、ご視聴ありがとうございましたー、頭のなかで昨日見た配信者の声が再生される。「だから」、ひゅっと音が鳴って、喉に空気が流れ込んでくる。 「だから、途中まで一緒に帰ろ?」  彼に気づかれないよう、ゆっくり、ゆっくりと空気を吐きだす。マスクのなかが私から漏れた空気で熱くなる。「うん、いいよ」、靴を取りながら言った新居くんの声を鼓膜よりずっと奥のほうで聞いた。  コンクリートの地面にはほんの少し傾いた日光が反射していて、一瞬、視界が研ぎ澄まされたみたいになった。隣を歩く彼は一度立ち止まって靴のかかとをなおしたあと、「ごめん」と笑ってまた歩き始めた。 「後遺症、どう?」 「んー、よくなってきてはいる。弁当の味もするようになったし」 「よかった」  今年はお花見できないね。校門の付近に並ぶ葉桜を見て、入学したばかりのときに蛍がそう呟いていたことを思いだした。花火大会、行けないね。文化祭、中止だってね。そういう不運でたまった鬱憤をどこで晴らしたらいいかわからないけど、大人はこれをやってるくせにとか、ルールを破って罪悪感にまみれながら楽しいことをするとか、そういうことをしたところで上手に消化できるような気はしなかった。 「花火大会、中止らしいね」  唐突に新居くんが言った。彼に思考を読まれていることを危惧したが、気が合うということにしておいたほうが上手く片付くから、そう考えることにした。 「うん。行きたかったなー」  仕方がないと頭ではわかっていても、もしかしたら一緒に行けたかもしれないという可能性を考えてしまう。ふわり、身体から熱が抜けていく。「あのさ」、新居くんが言う。少しの間を置いて、「うん」、返事をする。 「……じゃあ、今度。一緒に花火でも、する?」  手持ちのやつ。私とは反対の方向を向きながら新居くんが言葉を追加するから、私は訳がわからなくなって、「え」とか、「うわ」とか、熱でぱんぱんに膨らんだ喉で意味を持たない文字を並べてしまった。胸の辺りが苦しくなってきて、慌てて息を吸う。 「うん、花火したい」  時間をかけて返事をすると、彼は「うん、しよう」と言って笑った。  なるほど、と思った。結末を変えるために動いた先には、自分にもこういうハッピーエンドが待っていたらしい。内側に籠もった熱を排出するためにマスクを下げると、「あついね」、ほぼ同時に彼もマスクに手を掛けた。
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