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 昼休み、冷房が空気をこする音が充満する静かな教室でミニトマトを口に運んでいる。つるつる滑るから手で摘まみたくなるけど、いまのご時世、食べ物を直接手で触るのは気が引ける。なんとか箸で口に運ぶけど、結局ヘタを取るために左手の親指と人差し指がくちびるに触れるから、そういった努力をすることに関してやっぱり不毛であると私は言いたい。 「今年も花火大会、中止かもねー」  隣の席で卵焼きを口に詰め込むのに必死になっていた蛍が言った。えー、まじかー。返事をする。かなりちいさい声だったけど、咀嚼音とエアコンの音しかしない教室ではそれなりの存在感だったらしく、じろり、担任のやけに小柄な黒目が私たち二人を順番に睨んでいった。怖あ。蛍がそう口にするから慌てて先生から視線を逸らした先で、新居くんがサンドイッチをほおばっている。私に眺められている彼の視線察知能力は異様に高く、そしてそのことを学習しない私はまた彼と目が合って、それから急いで逸らすなどを繰り返している。  地獄の黙食タイム、つまりは感染症対策でおしゃべり禁止の食事を私たちはさせられているのだけれど、これがかなり退屈で仕方がなかった。昼休み一時間のうち三分の一は喋ったらダメなんて、本当に休みと言えるんですかね、これは。そう言いたくなるのをみんなはぐっと我慢しているけど、そう言いたくなるのをぐっと我慢しないのが蛍だった。 「ルールだから」  先生にそう言われたときの蛍はもちろん引き下がらなかったのだけれど、いまとなってはどんなやりとりがされていたのかはもう覚えていない。それを不満に感じている女子生徒約一名が不平を口にしたところで覆らないのが組織であり、世界であり、ウイルスの情勢なのである。  私たちが入学してきたころにはすでにそんなんだったから、蝉が鳴き始めるころにはもうすっかり慣れてしまっていた。「あのね、咲」、地獄の黙食タイムが終わっておくちのチャックが開放されると、蛍は堰を切ったようにため込んでいたであろう言葉を吐きだした。おろろろ。一緒に卵焼きが出てこないか心配したけど、杞憂だったらしい。 「運命なんかに期待してるだけじゃ、新居は振り向いてくれないよ。物理的な意味じゃなくてね。咲は――」  蛍が吐きだす言葉たちを、マスクの上から彼女の口を押さえることによってせき止める。「しっ。声が大きい」、人差し指を口に当てて注意する。 「なんで黙食タイムが終わったのに声を潜めなければならないのさ」 「蛍、感染症対策以外にも、声を潜めなきゃいけないときがあるんだよ」  現実はいつも上手くいかない。私にばかり不幸が集まっている気がする。絶対にそんなことはないと頭の中では理解しているのだけれど、こころは違う。理性と本能みたいなものだと私は思う。それは恋愛だけの話ではなく、学校生活もまたしかりだ。  私だってこんな高校生活を想像していたわけじゃない。ともだちで集まってわいわいお弁当をわけあったり、部活で汗を流してみたり、校外学習で好きな男の子と二人で迷子になったり、そういう青春を送ってみたかった。でも、いざ受験戦争を乗り越えても私を待っていたのは黙食だのマスクをしての筋力トレーニングだの、コロナウイルスに侵食された青春とはほど遠い高校生活だった。  まあ、そんなもんだよねー。かっこわら。お兄ちゃんは気の毒そうな顔をしていたけど、奴が高校生のころは文化祭とか修学旅行とかを満足にできていたのを私は知っている。それにコロナが流行る前は家に彼女を連れてきていた。説得力なんかあるものか。かっこわら。  蛍に連れられてトイレへ向かうとちゅう、教室の出口付近でたまっている男子のなかに新居くんの姿を見た。ぱちり、目が合う。よっ、元気か。そういう意味を込めて会釈する。笑顔が返ってくる。話を振られた彼は友達との輪にまた溶け込んでしまって、私は行き場のない視線を彼の横顔に貼り付かせる。 「話しかければいいのに」 「べつにいいんですー」 「花火大会、中止になったら新居を誘う計画、なくなるじゃん」 「最悪だあ」口ではそんなことを返すけど、私はひそかに安心している。そもそも私が新居くんと二人きりで花火大会をまわるということ自体ハードルが高すぎるのだ。  もわっと蒸し暑い空気が布と肌のあいだに入り込んでくるから、慌てて袖をたくし上げる。予鈴のチャイムが鳴る。早くも背中に汗が滲んで、吸水性の悪いキャミソールが肌に貼り付いている。マスクを下げる。  私を待っているのはいつもハッピーエンドじゃない。学校のこともそうだけど、新居くんとの関係もどうせ上手くいかずに終わるのだと思う。前から数学の先生が歩いてくるのを見て、慌ててマスクを引き上げる。蛍は気づいていないのかそれとも直すつもりがないのか、教室を出ると同時に下げたマスクに手を掛ける様子はなかった。 「マスクしろよー」  先生は吐き捨てるみたいに言ったあと、きゅっと自分のマスクの位置を直した。その拍子に眼鏡が曇る。はーい。ふたりぶんの返事が廊下の湿気まみれの空気を震わせる。トイレへ身を滑り込ませたあと、私はなんとなく反抗のしるしとして、ポケットから色つきのリップを取りだした。鏡を見ながらくちびるにピンク色のリップを這わせる。ぼわり、照明の光で艶やかに輝く。それかわいいねー。いつの間にかトイレを済ませていた蛍が言う。  そんな蛍のほうこそ頬に赤っぽいチークが乗っているから「チークしてんだ」、私もそれに触れる。「うんうん、でしょー」歩幅の広い声が返ってくるけど、学校の外では滅多にマスクをしない蛍の肌が私より荒れていればもう少し自分に待っている結論みたいなものに固執せずに済んだのだと思う。 「咲はもっと自信を持ったらいいのに」  それでも蛍がそんなことを言うから、明日こそは新居くんを花火大会に誘う努力をしてみようという気分になった。
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