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終電の時間前後にいったん店の客足が止まる。
しばらくするとまたぽつぽつ人が流れてくる。本当の酒好きや客を連れたアフターの同業、いつもならここから心のエンジンをかけるが今日は勘が外れそうだった。
「もうひと波は来ないかなあ?」
オーナーの工藤は誰もいなくなった店内を見渡してカウンターの中で腕を組んで顎に指をかけて考える仕草をした。後ろを短くそろえて前髪が長い工藤の頭がドアのほうを向くと、扉が静かに開いて男がひとり入ってきた。
「いらっしゃいませ」
舌足らずな工藤の声の後ろで蒼は言葉を失って固まる。
「まだ大丈夫?」
黒いコートを纏ったスーツ姿の当麻が何も知らない顔を装って入ってくる。凍りついている蒼のことは見えているはずなのにあえて視線から外しているような感じだった。
「どうぞー、朝までやってますので」
脱いだコートを横の椅子にかけて座ると、何か探しているように蒼と工藤を交互に見た。
「今日は従業員だけ?」
「オーナーの工藤です」
そつのない笑顔を浮かべて当麻の前に名刺を置いた。だいたいの客は工藤の見た目のせいで彼がオーナーとは気がつかない。
いつもなら近い距離でオーナーと並ぶが今はなんとなく背中でガードされている感じだった。客が脱いだコートをクローゼットにかけてこいという指示もない。それはカウンターから出るなという意味で笑顔の裏に鋭い警戒心を隠していた。
今夜この男の正体を見る時が来るのか。そう思うと気が重い。
「ビールを。よかったら飲んで下さい」
「ありがとうございます、グラス3つお願い」
「…あ、はい」
蒼は我に返ってバックヤードに行って冷やしてある細いビールグラスを冷凍庫から取り出して急いで戻ると指を鳴らしてオーナーが待っていた。
「それでは普段働かないワタクシが注がせていただきます」
誰に言うでもなくオーナーは呟いて真剣な眼差しでビールサーバーからビールを注いでいた。「むずかしー」と言いつつ普通に上手く注いだグラスを当麻の前に出して、次は従業員用の少し小さなグラスにふたつ。ひとつを蒼に渡して自分もグラスを持つ。
「でははじめましてでいただきまーす乾杯!」
わざとかもしれないけどノリがバーじゃないんだよなこの人と思いつつオーナーに続いて蒼も当麻のグラスに自分のグラスを静かにキスさせた。
当麻は一口飲んでからグラスを持ったまま前髪を梳いてセットしてある髪を崩した。
「いつも通る道なんだけどこの店は気がつかなかったな」
蒼の目の前でさらりと嘘をついてからグラスを置いた。
「そうですねえ。秘密基地みたいにしたくてこんな感じで営業してます」
両指で可愛らしくグラスを持ってオーナーは笑っている。
「知り合いに名前は聞いてたんだけど、カラス?漢字が難しいね」
「よく言われます。中二病爆発しすぎましたね。族上がりと勘違いされますよ、夜露死苦の変化形かって。まあ否定はしませんけど」
オーナーは笑顔を絶やさないが前髪に隠れている目は笑っていない。当麻も何が目的なのかピリッとはりつめた空間で緊張で動けない。
「こんな格好いいオーナーさんならモテるでしょ」
「モテたくてこの仕事始めたんですけど、お客様全員に好かれないといけないんですよね。女抱きたかったら水商売辞めたほうがいいとやってから気がつきました」
雰囲気でごまかされているが際際の所を攻めてるなと蒼は冷や汗をかいた。相手は当麻だ。こちらに話が向かないように祈っていたが、当麻は蒼のほうを見てこない。
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