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夕方から降り出した雨が路面を濡らしていく。 激しい雨音が人間の生み出す全ての音を吸い取って逆に静寂に感じた。冬に近づいている季節の雨は冷たく、あたりはどんどん暗くなり太陽に替わってネオンが街を照らし始める。 これだけ降っていれば客足は遠のくなと思いながら稲川蒼は大学の講義が終わってからバイト先のバーに早足で向かっていた。 鍵をオーナーに渡されて開店準備から閉店までほとんど任されていた。途中スーパーに寄って必要なものを買い、雑居ビルの中にある店の地下に続く階段を降りていく。入り口を開けて『Bar鴉巣』と書いてある電光看板をいったんドアの近くに出しておく。雨なのでビルの外には出さずに店の前に設置して開店時間になったら電気をつけることにした。 ふんわりした長めのマッシュに、柔らかく膨らむ頬が可愛いと面接の時にオーナーに言われた。それはネガティブな意味なのかと思っていたが、自分より若く見えるオーナーは蒼の心に気がつくと優しく笑った。大学に入学したのと同時くらいからずっとこの店で働いて2年になる。 カウンターに食材が入ったスーパーの袋を置いて店の電気を点けていく。制服に着替えて戻り、店内を掃除していた時入り口のドアが開いた。 正直開店前に客が来るのはうっとおしい。濡れた傘に気を取られて鍵を閉めるのを忘れていた自分が悪いのだが無防備に不機嫌な顔を向けてしまった。 「…よお」 招かれざる人間がドアを開けて店内に入ってくる。 黒いパーカーのフードを脱ぐと、そこには自分によく似た顔があった。 似てはいるが乱雑に伸びた黒髪に、こけた輪郭、えぐるような鋭い視線は野生動物のようで蒼は思わず目線を外してカウンターの中に逃げる。 「いつ出てきたんだ当麻」 蒼はひとつ上の兄の名前を呼んだ。 「けっこう前」 当麻と呼ばれた青年は物珍しそうに店内をぐるりと見て「いい雰囲気の店だな」と呟いた。その一言に蒼は過敏に反応して頬をぴくりと痙攣させる。 「もう来ねえよ。お前がここで働いているって風の噂で聞いたんで気紛れに覗いただけだ」 当麻は体を反転させて蒼を覗き込むように睨むが表情は笑っているように見えた。 「まだ開店時間じゃないんだけど」 心の中にある罪悪感と憎悪が吹き出しそうで蒼は当麻の目をまともに見ることができない。 だから会わないほうがお互いのためだと思ってずっと忘れたふりをして生きてきた。 「俺が怖い?」 「怖くはないけど…」 「じゃあ嫌い?」 「……」 黙ってしまった蒼を見て想像通りの反応だったのか当麻は困ったように片眉を上げて笑っていた。 「仕事の邪魔してるともっと嫌われるな」 当麻は長袖の裾をめくって腕時計を見る。何も用はなかったのか、本当に顔を見に来ただけなのか店を出ていこうとする。 「待って!」 小学に入学した頃から離れ離れになった。今になって何故会いになんて来たんだろう。 「今どこに住んでるの?仕事してるの?学生?」 矢継ぎ早に質問していた時入り口が騒がしくなった。 「ごめん蒼君、雨宿りさせてもらっていい?すごい降ってきた!」 開店前に数人のサラリーマンが店内になだれ込んできた。まだ何も準備できていないのに面倒だなと思っているとひらりと手を降って当麻が出ていこうとする。 「当麻!」 ここで別れたら二度と会えない気がして蒼は兄の後を追いかけた。地上に向かう階段の途中でフードをかぶり直している当麻はゆっくり振り返ってじっと蒼の目を見た。 「兄さん…」 今度は目をそらさなかった。 「また来るよ」 当麻は縋りついてくる弟の柔らかい髪をなでて、その指を蒼の特徴的な頬に滑らせる。くすぐったそうにしている蒼の隙をついて体を離して階段を登っていく。 その後ろ姿に血しぶきの中倒れる父親の姿がフラッシュバックして吐きそうになり口を抑えてうずくまった。
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