葛藤

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気疲れのほうが体力を削る。 今日こそは廊下でなくベッドで休もうと蒼は決心した。 「いつもふたりで?」 あいかわらず当麻は蒼を見ないでオーナーと話している。弟がバイトしている店が気になったのか単に気紛れか、朝に別れたばかりなのに「会う」という約束は嘘じゃないと示したかったのか当麻の行動原理が蒼にはわからなかった。 「他に経営している店舗を廻ってここにはあんまり。鴉巣はバイトの子たちが優秀でつい任せっきりになってしまって。今日はたまたま昼に用事があってついでに覗いたら店の前が雨水で水浸しだったので掃除して、そのまま仕事してます」 「ふうん、敏腕経営者なんだ。すごいね」 酔いがまわったのか少しリラックスした表情になって当麻は頬杖をついた。鋭い光を帯びていた眼も柔らかくなっている。おだてられるのには慣れているのかオーナーは笑顔を深くしただけで何も言わなかった。 「さっき爆発事故があった。籠もっていて正解だったね」 「消防車のサイレンすごかったですね。ここまで聞こえてきましたもん、ね?」 グラスを置いてオーナーが蒼のほうをふり返る。 「お客様がそこのドアを開けて音を聞いてたので店内に響いてましたね。何台も通り過ぎていったから気にはしてましたけど」 蒼の話を当麻は優しい目で聞いている。バイト先に親がやってきたような気恥ずかしい感覚になったがポーカーフェイスを崩さないように努めた。それでも朝方まで愛し合っていたことが脳裏に浮かんで体が熱くなる。 ビールを飲んでいるあの唇が、さっきまで自分の体を滑って感じる所を探り当てていた。耳元で囁かれる言葉は脳を溶かす不思議な魔法だった。 「ごちそうさま、そろそろ行きます」 当麻の言葉で我に返ると席から立ちがってコートを羽織っている姿があった。 「ありがとうございます、タクシー呼びますか?」 「平日だからそのへんで拾えると思う」 「今夜はパトカーがたくさんうろうろしてますよ」 「そうだろうね。いくら治安が悪くても爆破事件なんてそうそう起きないからな」 「ごちそうさまでした!またご来店お待ちしてますね」 グラスに残るビールを飲み干してからオーナーは伝票を書いて当麻の前に置く。支払いを済ませてドアを開けて出ていく後ろ姿を蒼はじっと見つめていた。 オーナーは最後まで当麻の名前をたずねることはなかった。 「今夜はこれでおしまいかなあ」 グラスを洗っている蒼の背後を通ってオーナーは地下に降りる所に置いてある看板を取りに行った。しばらくすると背中でゆっくりドアを開けて両手で抱えている看板を店の中に置いて「ふう」とため息をつく。 「蒼くん明日はシフト入ってなかったね。ゆっくり休んで」 「…そうします。今日も大学行けずに夕方まで爆睡してました」 「ごめん!最近お店まかせっきりだったからね」 疲労の原因は仕事ではなかったが説明するとややこしい事になるので、少し後ろめたいが黙っていた。蒼を疲れさせた原因が目の前にいたのだ。まさか当麻が殺人犯だと知っているわけはないが夜に生きる人間の独特の勘が危険と判断したのかオーナーは最後まで警戒を解かなかった。 「もう終電なくなったね。これでタクシーで帰って」 バックヤードで着替えているとオーナーが入ってきて折りたたんである1万円札を握らされた。 「こういう金はその日のうちに使ったほうがいいから」 その言葉の意味がわからず質問しようとしたが、すっと出ていってしまったオーナーを追いかけるタイミングを失って蒼は仕方なくかばんに突っ込んだ。
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