微睡み

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真っ暗な視界に包まれる中、ひたいに冷たい指を置かれて誰かの話し声が聞こえる。細い指は女の人だろうか。母が来ているのか。わからないまま深い眠りに誘われそうになる。 目を開けると心配そうに覗き込む当麻がいた。蒼は覚えのあるベッドに寝かされていてひたいには当麻の手があった。意識がはっきりしてくると遠くのほうでぐつぐつと何かが煮立っている音が聞こえる。 「…蒼、俺がわかる?」 ひどく疲れた顔に何とか笑みを浮かべて当麻が語りかけてきた。眠っている間に何があったんだろう。目眩がして倒れた所から記憶が曖昧だった。女性の声が聞こえていたと思っていたが幻聴だったのだろうか。当麻の指が女の指に感じていたのなら体感幻覚か。ああまた脳が誤作動を起こしたんだ。体中を襲う疲労感がそれを現している。 「ごめんなさい…」 多分パニックを起こしてわけのわからない状態になっていた。当麻の疲れた顔がそれを証明している。 「顔色は良くなってきたけど立てないなら横になってるか?俺は勝手に晩酌するけど」 少し体を起こしてソファのある空間を見るとテーブルの上にカセットコンロがあり鍋が湯気を立てていた。 「おなかすいた」 自分でもびっくりするくらい幼い声が出た。 「お兄ちゃん転がしが上手いなお前は。おいで」 そう言って当麻は蒼の体を抱きかかえた。蒼は自然な動きで当麻の肩に腕を回す。 この前はよく見ていなかったがブランケットや脱ぎ捨てた服がかかっている大きな黒革のソファの下に赤くて重厚なペルシャ絨毯が敷かれていた。ソファの上やテーブルのまわりにはアラブ風なデザインの大きなクッションがたくさん転がっている。当麻の趣味なんだろうか。高そうな家具に腰が引ける。 大きなクッションの上にそっと降ろされる。当麻はビールを取りに行ってから正面に座った。白い汁に海鮮がたくさん詰まっている。何鍋だっけ?と考えていると当麻が取皿に適当によそって蒼のほうへ置いた。 「ありがと。いただきます」 手をあわせて箸を取る。当麻は片手で器用に缶ビールのフタを開けていた。 「ふーふーして冷ましてやろうか?」 「だ、大丈夫だよ」 「えーさっきまでお兄ちゃあんって甘えて可愛かったのに急に冷たいな」 「ごめんおぼえてない」 恥ずかしさに目一杯うつむいて黙々と食べる。 「酒粕多めに入れたから温まるぞ」 石狩鍋だ、やっと名前を思い出した。母はこれを家で作らなかったので店のお客さんたちと食べに行った時に初めて知った。 「辛いの苦手って言うからお子様味にした」 「俺?いつそんな事言ったの?」 「さっき聞いた時言ってたよ」 蒼は首をかしげる。何を言ったか全然覚えていない。 「まあいいから食べよう」 「当麻が言うからじゃん」 にやにやしている当麻にむっとしながら空腹の体に温もりが染み渡ると機嫌が直る単純さだった。 「おいしいね」 ふっくりした頬をさらに膨らませて蒼はにこにこしている。これが最後の晩餐になるかもしれないと思うと余計おいしく感じて悲しくなったが、狂った自分を看病してくれた兄をこれ以上困らせないように楽しそうに振る舞った。 そんな演技をしなくても、当麻と一緒ならどんな時でも楽しい。 「とうまー抱っこーってずっと言ってたぞ。昔から結局俺の所に戻ってくるんだな」 「マジで?子どもがえりしちゃったな。最近起きなかったけどパニックになると人格がぐにゃぐにゃになる」 泥酔した時記憶がないのと同じ感覚で何を言われても覚えていないので他人事に聞こえる。 鍋に溶けたアルコールのせいかだんだん頭と体がぼんやりしてきた。 「暑うい…」 こぼさないように皿を置いてから背中のソファに体重を預ける。ああまた話し方が子どもっぽくなってきたな、今日は重症かもしれないともうひとりの自分が冷静に分析する。 「体調悪そうだな、横になるか?朝まで寝てても大丈夫なんだろ?」 「…うん……あとで……」 当麻が立ち上がって近づいてくると蒼を抱き上げて後ろのソファに転がして厚めのブランケットをかけた。缶ビールと取皿をこちらに持ってきて蒼の側に座りコンロの火を止めた。 「とうまぁ……」 クッションの隙間から蒼の手が伸びてくる。 「俺は残り食うから」 蒼の手を捕まえてゆっくり戻す。 「鍋が片付いたらお前を食ってやるからいい子にして待ってろ」 片目を細めて笑いながら当麻は鍋の底を掬っている。照明を暗めにして半身を蒼に向けて様子を見ながらビールを飲む。 「当麻…」 「少し眠れ。体調悪いんだから」 「やだ…とう…ま……」 「……」 ことり、と缶を置く音がした。 ブランケットを落として横になっている蒼のジーンズを下着ごと脱がす。自分が貸した黒のトレーナーから蒼の青白い素足がむき出しになり、股間に顔を埋めて蒼の望み通り口に含んだ。 「あ…とう…ま……」 蒼の指が当麻の髪に伸びる。肩に担がれた足が当麻の動きに合わせて揺れる。薄く開いた蒼の唇から吐息があふれるように漏れるが前のように手加減する気配はなかった。 「ん…ぅ……」 蒼から吐き出される欲を全て飲み干して当麻は顔を上げた。 「どうだ、蒼?」 クッションに挟まれて沈んでいる蒼はうるんだ瞳で当麻を見つめていた。それはさっきまで出現していた子どもなのか、「蒼」なのか違いがわからない。 「もう寝ろ、蒼。おやすみ」 後で覚えていないと言われるのは嫌だった。そんなつもりはさらさらないがもし明日捕まる運命が待っているとしたら今後悔したくない。蒼を貪り尽くしてこの世を去る。そして止めてもついてこようとするだろう弟に自分の全てを最後の最後まで覚えていて欲しかった。 「俺が死んでから、忘れろ」 この言葉を理解できるなら大人の蒼だろうと思ってわざと冷たい言葉をかけた。 「…当麻……」 お前はどっちの蒼なんだよ。 当麻はぼんやり横たわる蒼を冷たい表情でじっと見下ろしていた。
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