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パーカーのフードを深く被り、ブーツで水を吹き飛ばすように歩いていく。
雨はいい。全てを洗い流してくれる。赤い血も足跡も雨が止めば何も残らない。そんな血生臭い世界に弟が生きていない事が確認できて当麻は安堵した。
だがそれは弟の世界で、自分は違う。
一般的な住宅街から離れた倉庫の2階へ続く階段を足音を忍ばせつつ踊るように登る。異変は下にいる時に気づいていた。ドアの前に到着して身をかがめて中の音を耳で捕えてそっとドアを開けた。
真っ暗な部屋から空を切る音が自分に向かってくる。ギリギリの所でよけたつもりだったが前髪が数本空中に舞った。
「…っ!」
一瞬よぎった窓の外からの光で相手の攻撃が見えた。秒の速さで狙ってくる人間の足を両腕でガードした。
中央で反発する力でふたり離れる。ポケットから小型の懐中電灯を取り出して相手の顔を照らすとそこには見慣れた女の顔があった。
「勝手に人ん家入るな」
改めて部屋の照明をつけるとグレーのトレンチコートを羽織って黒スーツを着ている長い黒髪の女が無表情で立っていた。
「可愛い弟に会って腑抜けているかもしれないと思って」
「は?何だそれ」
女の横を素通りして散らかった部屋の真ん中にある大きなソファに座る。人間が住むように設計されていない室内はいくらエアコンがあっても夏は暑く冬は寒い。それでも当麻にはここが自分の城だった。
ブーツを履いたままふんぞり返って座り目を閉じる。濡れた体は想像以上に疲労していてこのまま眠ってしまいそうだったが、首筋に刃物の冷たい感触で目を開けた。
「何の真似だ芽依(めい)」
片腕で首を押さえられて動脈にナイフの刃を当てられている。
「懐かしい感じでしょ?」
小馬鹿にしたような口調に当麻の眼に鋭い光が宿る。芽依と呼ばれた女は皮膚に浅く刃を滑らせて、赤く浮き上がった血の線を舌で舐め取った。
「親父も確実に殺しておけばよかった」
当麻の後悔とも取れる呟きを聞きながら、芽依はソファの上にある柔らかいクッションにナイフを放り投げて自分の体を背もたれに乗り上げて片足をのせて座った。
「殺したら一生出てこれなかったかもよ。傷害で正解よ」
「6歳のガキがたとえ人を殺しても罪には問われないだろう」
「まあ、ね。入院は長引くと思うけど。弟さん元気だった?」
蒼の居場所を教えてきたのは芽依だった。
一生会わないと心に決めていたがその存在を聞けば決心が揺らぐ。
「お父さんもまだ生きてるわ。今度こそとどめを刺すんでしょう?」
耳元で芽依が煽ってくる。父をこの世から消すために動いているから蒼に類が及ばないように距離を取っていたのに、芽依は会いにいくようけしかけたり父への殺意を思い出させるような矛盾した言動をする。
情報や武器を提供してくれるのはありがたいが、その動機が金以外にある所が不気味でよくわからない女だった。
「あれ、あげるわ」
勝手に人の首の皮を切ってクッションに放り投げたナイフを指差して芽依が言う。
「切れ味はよくわかったでしょう?」
「どうせ高いんだろう」
「だから、あげるって」
当麻はチラリと視線を向けて、すぐに違う方向をぼんやり見つめる。予想していた反応と違ったのか芽依は立ち上がって当麻の正面に跪いて顔を覗いてきた。
「疲れてる?」
「体が冷えて寒い」
「飲んでくればよかったのに。追い出された?」
変な所で気を使ったと勘違いしたのか芽依は指を顎に寄せてくすくす笑っている。
「あなたを見ているともどかしいわ。だからついおせっかいしてしまう」
しばらく肩を揺らせて笑っていたが唐突に笑うのをやめた。綺麗な笑顔からしらじらしい能面のような表情になって不気味な気配を身にまとっている。
「次の雨の日に殺しに行きなさい」
誰を、と言わなくても当麻の中で相手は決まっていた。
予想が外れて客足が途切れないまま『鴉巣』は閉店時間をすぎても営業が続いた。
蒼ひとりでは店を回せなくなり途中オーナーに連絡して手伝いに来てもらってなんとかその日をやりきった。
「お疲れ様蒼くん。忙しかったね」
ヘアメが間に合わず素に近いスタイルのオーナーは少年のようで二人で並んでいると自分のほうが年上に見えるかもしれない。
「ありがたいことで…。こんな大雨だったのに」
「天気なんか関係ないよ。みんな蒼くん目当てだもん」
男性陣にモテても微妙だなと思いながら仕事中も当麻の事で頭が一杯で集中できず早く上がりたくて仕方なかった。それが顔に出ていたかもしれないがオーナーは何も言わず優しく労をねぎらってくれる。朝日の眩しさが網膜を通り越して脳にささるように痛かった。
今まで噂すら耳に入ってこなかったのに突然現れた当麻。
どうして鴉巣で働いていることを知っていたのか、今どこで何をしているのか何もわからない。
「気をつけて帰ってね当麻くん」
「あ、はい。お疲れ様でした」
オーナーの声で我に帰って当麻は駅に向かって歩き出した。
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