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「そっかあ…。寂しくなるね」 開店直後の鴉巣の店内で、蒼はオーナーに店を辞めることを告げた。当麻にもらった黒いトレーナーにジーンズを履いて、体のラインが隠れるグレーのチェスターコートを膝の上に置いて奥のボックス席に座っていた。 「これ、少し色つけといたから。今まで店任せっきりで負担かけちゃったね。ありがとう蒼くん」 茶封筒に入った給料を蒼のほうへ滑らせる。オーナーは珍しくスーツを着ていた。自分が抜ける穴を埋めるため店に出るのだろう。いつもセットしていない髪も今日は後ろに流していた。 「お世話になりました」 蒼は一礼して立ち上がった。帰ろうとすると女性がひとり入ってくる。 「いらっしゃいませ」 オーナーが体を伸ばしてドアのほうを見たのをきっかけにして蒼はもう一度頭を下げて店を出た。カウンターには髪の長い女性がこちらに背を向けて座っている。もうここで仕事しないんだ、なんとなく寂しく感じながら静かにドアを閉めた。 「芽依さんひとり?」 カウンターの中に入ってオーナー工藤は派手な赤いスーツを着ている芽依におしぼりを開いて渡し注文を聞く。芽依は赤い爪の指でそれを受け取って烏龍茶をオーダーした。 「この前の依頼、目障りな警察官2人を消したけどあれでよかった?」 「大満足。生きながら焼き殺される姿を拝めなかったのは残念だけどきっと苦しんで死んだと思うと笑いが止まらないよ」 工藤は邪気のない笑顔で答えた。 「悪趣味ね。命を奪う方法はほかにもいくらでもあるのに。いろいろ仕掛けるの大変だったわ」 「なに、報酬に手間賃を上乗せしに来たの?」 コースターの上にグラスを置いて工藤は腕を組んだ。 「そんな事言わないわよ。ただ別件でもうひとつ仕事を抱えていたから忙しかった」 「例の殺人事件?」 烏龍茶を口に含みながら芽依は工藤を上目遣いで見つめる。睨んでも工藤の心には何も刺さらない。ほかの客はいない店内で際どい会話は続いた。 「最近噂になっている事件の犯人はさっき出てった子のお兄さんだろう?」 「さあ。知らないわね」 芽依はしらを切る。蒼と当麻の父親、稲川紘一が殺された事件はあっという間に夜の世界に広まったがその直後起こった爆破事件に話題をかっさらわれた。 先に起きた殺人事件を捜査していた刑事が車の爆発事故に巻き込まれて死亡する。何か関連性があるのかと街の連中は噂したがこんな話は最高の酒の肴になるがすぐに忘れられる。 工藤が芽依に殺人依頼した時期とたまたま重なっただけで何の関係もない。それでも偶然にしてはタイミングが良すぎた。 「何かあるとすぐあいつらが来る。うっとおしいから消してしまおうと思っただけ。自分でやってもよかったけど店があるから時間がなかった」 笑顔を絶やさず楽しそうに工藤が言う。店があるというがそんなに仕事していないじゃないかと芽依はつっ込みたかったが話に関係ないので黙っていた。 「まあ私は仕事をするだけ。事情はあまり興味ない」 動くたびに芽依の長い髪がさらさら揺れる。 「噂の犯人はどんな奴なんだろう」 「あんたより狂った人間をまだ見たことがないわ」 「えー?ひどいなあ。僕は真面目になったよ」 「そんな人間が殺人依頼してくるかしらね」 「僕はコミュ障だから苦手な人間を消してしまう癖があるだけ。子どもの頃からそう。僕をいじめてた同級生をトイレで八つ裂きにして窓から吊るした時は快感だったなあ。内蔵がずるずる地面に落ちていってさ。みんな悲鳴あげてた。それを遠巻きに見ていて勃起したね」 工藤はその情景を思い出しているのか恍惚な表情で天井を見上げていた。 「まずくなるからやめて」 「今はそんな事しないよ」 工藤は無邪気に笑っている。子どものような残虐さで虫を殺すように人間を殺す精神の持ち主をまわりの大人が矯正できたとは思えない。 自分で手を下さないだけでこの男は人殺しをやめない。子どもの精神のまま成長したモンスター、それがこの男に対する芽依の評価だった。 「いらっしゃいませ」 店のドアが開く。ほかの客が来たので芽依は席を立った。 バイトを辞めても母からの仕送りだけで生活できるので蒼は金銭的に困ることはなかった。母は父に依存せず経済的に自立していたから離婚出来た。その後蒼と当麻を引き取ったが困窮することもなく蒼を大学に進学させるだけの余裕があった。当麻が母にお金を送っているのかもしれないが、昔から親に詳しいことを聞くのが苦手だったのでたずねたことはない。 蒼は寒い路上を歩きながらスマホを取り出してしばらく画面を見つめていたがすぐにポケットにしまった。母の電話番号を表示したがかける勇気が出てこなかった。今はいろいろ動くのは危険な気がする。もし警察が来て通話履歴をあれこれ聞かれる事になったらうっとおしい。いつ誰と会ったのか、なぜバイトを辞めたのか、根掘り葉掘り聞かれても真実は話せない。 学業優先を理由にバイトを辞めたが本心は工藤の正体を知って身の危険を感じたからだった。 大学の講義が終わってから近くの喫茶店に入った。入り口が見える奥の席に座って客の出入りを観察する。学生街にあるこの店は全てのメニューが格安で学生に人気だったので客は同じ大学の生徒が多い。しばらくするとコート姿で中年の二人連れの男たちが来店して蒼の近くの席に座った。あきらかに店の雰囲気に馴染んでいない。自分に尾行がついているのを確信して蒼は窓の外を眺めた。 蒼ですらこれだけ警戒しているのに当麻は堂々と現れる。逃げられないと開き直っているのだろうか。未成年のうちに手を下さず大人になってから父を殺したのは自分なりの人生のけじめか。いつか人知れず当麻は消えてしまうような気がする。 一緒に生きていく事は選んでくれなかったんだ。蒼は味のしないランチをコーヒーで流し込む。鍋の材料費とここの支払いでオーナーからもらった1万円を使い切った。
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