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「今夜も冷えますねえ。熱燗でもどうですか?」 足元にある日本酒の瓶を持ち上げてラベルを確認する。岸本が何も言わないので勝手に裏のキッチンに行き酒を温めて土器のような徳利を運んできた。 「お前がまじめに仕事してるなんてなあ」 「普段は従業員にまかせて家でごろごろしてますけどね。今夜はたまたま」 準備中で明るくしていた照明を暗くする。岸本の顔の皺が影でさらに濃くなった。 「で、僕の所に来たってことは何か事件ですか?」 工藤は腕を組んで愛想笑いを浮かべたまま首をかしげた。 「窓際は暇なんだ。今はプライベートだよ」 「え?」 「もうすぐ定年だ。今は半分隠居状態だ」 皺に隠れて人のいい爺に見えるが目はやはり鋭い。油断させて何か吐かせるつもりだろうか。最後に手柄を立てて引退の花道を飾りたいのならそんなものに手を貸すつもりはない。 「一生懸命仕事をしてきたが担当した子たちは変わらなかったな。獣はずっと獣のまま社会に放り出されたモンスターは犠牲者を増やしていくだけだった」 岸本はじっと自分の手のひらを見つめている。 「僕も性根は変わらないですけどねえ。サボり魔だし仕事キライだもん。あ、おでん食べません?僕食べたい」 かすかに頷いたのを確認して工藤は店の電話から出前を注文した。 「どもー、鴉巣です。おでんふたつ。辛子と味噌どっちもつけてくださーい。何分くらいかかります?はーいよろしく」 出前のメニュー表に書いてある電話番号を見ながら勝手に注文している工藤の姿を岸本は頬杖をついてじっと見つめていた。 「もう酔っちゃったんですか?ぼーっとしてる。どっかで飲んで来ました?」 「いや」 「そんな弱い姿悲しいなあ。僕の中で岸本さんはヒーローなんだ。まだ恩返し出来てないのに元気出してくださいよ」 お礼参りするまで生きてろよ、工藤は笑顔の裏で唾を吐く。岸本が何か言いかけた時ドアが開いた。 「あ、こっちです!ありがとうございます」 工藤は出前の店員に走り寄っていく。カウンターに小さな鍋をふたつ置いてもらってお金を払いもう一度「ありがとうございましたー」と言った。 「座ってもいい?」 岸本が脱いだコートをクローゼットのハンガーにかけて隣に座った。今日は何を言ってもNOとは言わない。まだほかの客もいないので工藤は自由に動いていた。 「あちちち、はいこれ」 フタを開けると湯気が勢いよく立ち昇る。小皿の上に箸を置いた。 「なんか孫に介護してもらってるみたいだ」 「やだなあ。そんな老けたセリフ。僕味噌。岸本さんは?辛子?」 「孫どころか、家族もいないけどな」 「……」 岸本のプライベートは聞いたことがなかった。自分たちの前ではうるさい鬼教官、そんなイメージしかない。 「食べましょか。ここの店美味しいですよ」 鬼も老いた。放おっておいてもいつか人間は死ぬ。何も自分がわざわざ罪を犯して殺してやらなくてもいつか死ぬんだ。 だが工藤の場合、理由があって結果があるわけではない。衝動が自分を殺人の快楽に誘うだけだ。それを矯正する気も、できる方法もみつからないままここまで来た。 それがわからない人間ではない。岸本が抱えているのは敗北感だった。 「なんで人は人を殺すんだろう」 「まずくなるからやめましょうよ、おえ。おでんの具が臓物に見えてきたじゃん」 「ごめん」 ようやく箸を動かして食べ始めた岸本に「はいそれ肝臓~」と耳元でささやいて仕返しした。それを咎められることはなかった。
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