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動き出した電車に乗り、ふらふらと歩きながらアパートに到着して玄関のドアを開けて中に入った瞬間、蒼はその場に倒れ込んだ。 酔いと疲労で指一本動かせない。靴を脱ぐのも面倒でこのまま冷たい廊下で少し眠ろうと思う。 母と別れてから、父もよくスーツ姿のまま玄関で倒れていた。仕事と育児が一気にその背中に襲いかかって満身創痍だったんだろうと思う。 どうして離婚したのか、小さい頃はそんな大人の事情はわからない。ただ父が心配で寝室から毛布を引っぱってきて父にかけた。 「おつかれさま、ごめんなさい」 「…ありがと蒼…」 重たそうな瞼を上げてそれでも父は幼い自分に声をかけてくれてまた目を閉じる。それが無性に恐ろしい事に感じて父が目を覚ますまでその体に寄り添って眠った。 全て自分が悪い気がしていつも「ごめんなさい」と言っていた。ふたりの子どもを育てるために無理をしている。自分たちさえいなければこんな大変な思いをしなくてすむのに、父は自由になれるのに、それが申し訳なかった。 朝、目を覚ませば当麻の隣の布団に寝かされていた。寝言で「…おかあさん」と呟く当麻。普段は兄貴風を吹かせている当麻も小学校にも通っていない子どもだ。台所では父が慣れない手つきで朝食を作っている。ジャケットを椅子の背にかけて白いシャツの後ろ姿。幼い頃の曖昧な記憶のうち、それは鮮明に憶えている。 どうして母は僕たちを捨てて出ていったんだろう。それを父にたずねるのも悪い事だと思って何も聞けなかった。 「当麻!お前はお兄ちゃんなんだからちゃんとしなさい」 食卓でぼろぼろとこぼしながら食べている当麻に父はキツく当たる。その父を当麻は睨む。僕は何も言えず黙って味のしないご飯を口に運ぶ。 父はコーヒーをすすりながらふたりの弁当をそれぞれのかばんに入れて連絡帳をチェックしながら僕たちに持たせる。自分も仕事へ行く準備をして車のキーを手に取ると「早く来い、行くよ」と僕たちを呼ぶ。当麻はテレビを点けっぱなしにしてだるそうに歩いていく。不機嫌そうな声で「消してこい」という父の言葉を聞いて慌てて僕が消して当麻の後を追いかけた。 「蒼に出来て何でお兄ちゃんは出来ないんだろうな」 保育園へ向かう車内で父の愚痴は続く。当麻は父の後ろ姿を睨んだまま何も言わない。 僕は怖くなって当麻の体を強く抱いて「ごめんなさい」と何度も言っていた。誰に向けての言葉なのか自分でもよくわかっていなかった。 「ごめんなさいごめんなさい」 その場しのぎだったのかもしれない。当時どんな気持ちで言っていたのか今もよくわからない。母親だったらそれでもぐちぐちと言い続けるかもしれないが父親は謝られるとそれ以上は言いにくかったのか黙って運転する。子どもなりに大人の機嫌を上手く取っていたなと思う。 「お前はいいよな」 保育園に着いてぽつりと当麻が呟いた。いつもならつっかかってくるのに妙に殊勝な態度に僕は面食らった。 「お父さんはお前のほうが好きだもんな」 「だったらちゃんと言うこと聞けばいいじゃん」 「……」 その言葉に当麻は何も言わず、黙って父がいた方向を見つめていた。 多分母親は長男の当麻のほうを愛していた。「次は女の子が欲しかったのに」と言っていたのを聞いたことがあった。僕が男だったから落胆したのだろう。 幼かった僕にできることは、誰かに謝ることだけだった。 「おまえいつもだれに謝ってんだよ」 普段は仲がいいが、そんな時の当麻は冷たい。 「いろんな人に。お父さんやお母さん、そして当麻」 「ばかかおまえ。だったら神様にでも謝っとくんだな。言っとくけど謝ったってだれも許してくれないぞ」 「…かみさま?」 聞いたことのない事に僕はぽかんとして当麻の顔をまじまじと見つけた。 「神様ってのは何でもゆるしてくれるらしいぜ」 つまらなそうに言って当麻は行ってしまった。 それでも僕は玄関で寝込んでいる父を見つけると毛布をかけにいった。神様なんてそんな都合のいいもの信じていなかった。現に助けてくれなかったじゃないか。当麻の言うこともたまには外れるんだな。その時は無邪気にそう思っていた。 自分がこうして疲れきって玄関で寝ているとあの時の事を思い出す。疲れていれば余計なことは考えなくてすむはずなのに同じような事をしていると脳裏に父が浮かぶ。 『結局自己満足だったんだよな。当麻の言ったとおり謝ったってどうにもならなかった』 それでも大人になって改めて思うのは、人は無性に地べたに頭を垂れて誰かに謝りたくなる時があるんだということだった。それは子どもの時とは違う、生きてきた時間が長くなればなるほどそんな気分になってただ静かに誰かに許しを請いたくなる。 「当麻…」 会いたかったよ。 大変だったけど、当麻が父を刺すまでは一緒にいることが出来て幸せだった。辛かった思い出も、当麻に会えた事だけで嬉しさに変わる。 でも本当は会うべきじゃなかった。あれは再会の挨拶ではなく、さよならの報告。 弟としての勘。そんな事を言ったらまた当麻に馬鹿にされると思ったが、眠りに落ちる瞬間まで冷たい廊下に頬をつけてしばらくぼんやりしていた。
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