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獲物
けばけばしい看板が光る場末感漂う店内で男がひとり酒を飲んでいる。
「社長業も大変なんだよお…、ホント辛い」
40後半くらい、安っぽいスーツを着て昼は整っていたであろう髪をだらしなく崩して男はカウンターに肘をついてぶつぶつと同じ話をしている。ぐらついてこぼさないように酒が入った水割りグラスを自分たちの側に寄せてボトル類も距離を取って配置した。
「まあ名前だけの社長な。嫁にも息子たちにも捨てられてさ。捨てられただけならまだいいけど息子に刺されたくらいダメ人間なんだ」
カウンターの向こう側にいる髪の長い女と、客と同年代のママはそれでも笑顔を絶やさず話を聞いてくれる。
今夜は昼から雨が降りだして店内は閑散としていた。ほかに客がいればそちらに逃げることもできるが目の前にいる酔っぱらいしかいない状態では動けない。ついに限界が来て若い女が目の前でスマホをいじり始めた。
「あーメイちゃん、俺にも連絡先教えてよ」
「ごめんなさい、お客様と個人的に連絡取っちゃいけないってママが」
「じゃあ今誰に連絡してんだよ。あ?客の前でプライベートな連絡してんの?この商売向いてないよ辞めちまえ!」
バツが悪そうにママを見るメイと、悪酔いして目が座ってきた自称社長にママは心中呆れながら愛想笑いを浮かべている。
それでも金払いがよければ我慢も出来るが、細客に用はない。
「稲川さん今日はこれ飲んだら帰りなさい。遅くなるともっと雨降ってくるわよ。うちももう店閉めるわ」
「メイちゃんが連絡先交換してくれたら帰る」
駄々っ子のように膨れ面をして腕を組む。ママが小さく頷いてメイに合図すると、渋々自分のスマホを稲川に近づけてLINEを交換する。
「わーいありがとうメイちゃん、今度ご飯行こうね!絶対ね!」
子どものようにはしゃいで稲川は画面に何度もキスした。酒が入る前は物静かな男だが酔うととんでもなく酒癖が悪い。ママは稲川の心の屈折を知っているから普段は何も言わないが今夜は度が過ぎた。
「ボトル代サービスするからタクシーで帰りなさい。はい傘持って。今度来る時返してね」
セット代だけ受け取ってママが稲川を追い出して鍵を閉める。
「荒れる気持ちもわかるんだけどねえ…」
事情を知っているママは多少同情するが従業員を守る立場もある。カウンター内ではメイが無表情にスマホを操作していた。
エレベーターの扉が開いてふらついた男が出てくる。傘をさして何故か目の前にいるタクシーには乗らず駅のほうに向かって歩き出した。
傘が舞う歩道の上、フードをかぶった黒いパーカー姿の青年が千鳥足で歩いていく男の後ろ姿を見つめている。
ポケットに入れていたスマホが光る。手にとって画面を見るとGPSが作動してターゲットの動きを追尾していた。
コート姿の芽依がビルの外に出てきて稲川を追うように歩き出す。さっき交換した連絡先を当麻のスマホに送って自分も稲川を追う。その光景を当麻はしばらく見つめていた。
「稲川さあん」
ふらふら歩いている稲川に追いついて芽依が明るい笑顔で声をかけた。
「あれ?メイちゃん」
戸惑うふりをしてだらしない笑みを浮かべて足を止める。
「ママほんとにお店閉めちゃって。まだこんな時間だし飲みに行きませんか?」
「えらく態度が違うじゃないか」
「ママの手前お客さんと仲良くすると機嫌損ねちゃって働きにくくなるの。ごめんね。ほんとは稲川さんとゆっくり飲みたくて」
「へえ」
興味がない態度を取っているがアルコールと下心が正常な判断を狂わせる。
「私がいいお店紹介します。行きましょ」
芽依はにっこり笑って歩き出した。稲川は上機嫌で後に着いてくる。どんどん繁華街から離れていくのに気が大きくなっている稲川は何も気がつかない。
暗い路地に入り、まわりにだんだん飲み屋がなくなっていく。隠れ家的な店でもあるのだろうか。少し歩いて酔いが覚め始めた稲川がやっとこの状況に不信感を抱いた。
袋小路になっている場所でようやく芽依が立ち止まる。
「こんな所に店あるの?」
「あるわけないだろバーカ」
その声は目の前にいる女からではなく背後から聞こえた。
「…当麻っ、おまえ……何だよ…!…」
フードから顔を出した息子を見て、稲川は情けないほど動揺してその場に座り込み、ママに借りた傘が転がった。
大きく震える体のまま後ろをふり返ると、メイの愛嬌のある笑顔が無表情に変わり自分を見据えている。
罠だと気がついた時には、ナイフを取り出してにやにやしている当麻が近づいてきた。
「助けてくれ…!俺が悪かったっ。だから殺さないでくれ!!」
雨が叩きつける地面に土下座して稲川は息子に命乞いをする。
「あの時傷の上に湿布貼ってくれてありがとよ。おかげで悪化した」
父親の前にしゃがみ込み、左頬をナイフでひたひた叩いて一気に引き裂いた。
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