1. 劇場

4/4
前へ
/68ページ
次へ
 束の間、周囲の音が消える。  自らの荒い呼吸だけが体内で響き、後頭部で動悸を感じる。  自分という存在が、悶える石ころにでもなったかのような感覚の後、「一体どうなっているんだ」という思考が頭の中を渦巻き、それから、周囲の音が少しずつ還ってきた。  無数の会話と足音、近くの街頭モニタから流れる音楽に目を開き、避けるようにしながら歩いていく人々の間で、ゆっくりと身体を起こす。  力の入らない感覚は変わらなかったが、それでも、さっきよりかは幾分マシになっていた。  そのまま座り込んだままでいると、「大丈夫ですか?」と女性が声をかけてきた。  恐る恐る女性を見上げる。今度は、その顔がはっきりと見えた。  返事をしようと口を開く。けれども、言葉のビーズは全てこぼれてしまったのか、一言の言葉も出てこない。  喉に手を当てた俺は、口をパクパクさせ、言葉を探す。  その姿を見た女性は、怯えた様子で後ずさっていくと、「よかった、大丈夫なのね」と口にし、目を伏せたまま離れていった。  ようやく立ち上がり、肩で息をしながら周囲を確かめる。  アイツはどこだ?――気にしていたのはそのことだった。  すぐに右の方から気配がした。  それは隠しても隠しきれない強烈な臭気だった。けれども、自分以外の誰もその臭いに気づいている様子はない。  再び駆け出す。不思議なことに、身体はさらに軽くなっていた。
/68ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加